潮騒の運用規程(プロトコル)
山本の執務室を出た頼の足取りは、先ほどまでの重苦しさを脱ぎ捨て、どこか軽やかでさえあった。
海軍の最高権力者から引き出した「裁可」。
それはつまり、彼が大陸という戦場を、軍の公的な枠組みの中で「調査」する許可を得たことを意味する。
(これで、手は縛られない)
頼は自席へ戻ると、直ちに館山へ向けて直通回線を繋いだ。
必要なのは、石原莞爾が抱える「論理」を物理的に粉砕するための、生々しい現場の証拠だ。
頼は、机の上に広げた大陸の地図の上で、豊台付近を指でなぞっていた。
石原莞爾が掲げる『不拡大方針』。
その旗印の裏で、物流のデータは真逆の現実を刻んでいる。
「山崎、聞こえるか、吾妻だ。」
海軍省の執務室で、頼は受話器越しに館山へ指令を飛ばした。
「そちらの演習で『確認』してほしい。現場の天幕の数から割り出した兵員数と、弾薬の消費率だ。石原大佐の理想と、現場で起きていることの『乖離』を、貴官の現場で証明してくれ」
「地獄の火の粉を浴びる準備はできてるぜ、頼」
受話器の向こうから、波音と潮の香りが漂ってくるような感覚があった。
霧の朝、館山の砂浜は鉛色の海と溶け合っていた。
海軍陸戦隊による突撃訓練。
重厚な硝煙が立ち込める中、山崎少佐は膝まで泥に浸かりながら、大発のランプドアから跳ね降りた。
駆逐艦からの支援砲撃が砂浜を掘り返し、視界を火柱が塗りつぶす。
「突撃だ! 敵陣の死角を突け!」
山崎の怒号が響く。
通常、この平坦な砂浜で敵陣へ突撃するのは自殺行為に等しい。
だが、彼らの動きには迷いがなかった。
頭上を金属音とともに影が掠める。九五式水上偵察機だ。
その機体は、まるで砂浜のすべてを掌に乗せているかのように、完璧なタイミングで仮想敵陣地へ信号筒を落とした。
直後、山崎の手元の無線機が、砂を噛むような雑音を追い払い、驚くほどクリアな声を届けた。
「――右翼、制圧完了。全隊、そのまま前進!」
山崎は遮蔽物の影で、泥に汚れた顔を歪めて笑った。
かつて頼が、中島、三菱らの慢心を、ネジの一本に至るまで徹底的に追い込み、規格を統一させた結果が、今この瞬間、戦場に体現されている。無線機の周波数、機体の整備手順、部品の互換性、それらすべてが『吾妻流の徹底合理』という一本の細い糸で、戦場の最前線と繋がっているのだ。
「少佐! 航空隊の連携、まるで別次元です! まるで、こちらの呼吸が見えているかのように!」
部下の将校が、砂を被りながら興奮気味に叫ぶ。
山崎は愛銃の銃身を叩き、鼻で笑った。
「当然だ。誰がその無線機の規格を統一したと思っている。吾妻中佐だ。彼がメーカーの看板をへし折ってまで強引に通した合理化の恩恵だ。戦場では、この退屈な『規格』こそが、俺たちの命を救うんだ! いまにわかる」
演習終了の報を受け、頼は海軍省の執務室で重い受話器を手にしていた。
館山からの直通回線越しに、砂を噛むような雑音と、激しい銃撃の余韻が響いてくる。
頼は膝の上の戦果報告書をなぞりながら、静かに目を閉じた。
「山崎、数値の乖離は確認できたか」
受話器の向こうで、山崎の荒い息遣いが聞こえた。
「ああ、頼。お前の言った通りだ。現場の天幕の数と弾薬の回転率を照らし合わせれば、、、誰がどう計算したって、これは『駐留』じゃない。戦うための準備だ!それは近いぜ」
頼は、館山で回収されたデータの束を見下ろした。
かつて自分が蒔いた「合理化の種」が、山崎という現場の観測機を通じて「石原莞爾の理想の崩壊」という現実を叩きつけてくる。
深夜の省内で計算尺と向き合う孤独なデバッガーとしての彼にとって、山崎の報告は唯一の確実な拠り所だった。
受話器を置くと、霞ヶ関の重い空気が彼を包む。
脳裏に【カ-四七一二・昭十】の数字が、鋭い警告音のように点滅した。
(砂浜の勝利は、あくまで設計されたシステムの中の正解に過ぎない)
これから対峙するのは、大陸という巨大な「未定義バグ」を抱え、暴走を始めた帝国という組織そのものだ。




