絶望への解法
最後の1秒、、、。
この暗号化されていない無防備な平文がデータの末尾に刻印された瞬間、国家の運命をひっくり返すための『最強の弾丸』は、国際有線ネットワークを裏からハックし、海底電信ケーブルの底を伝って数千キロ離れた帝都・海軍省へ――歴史を修正するための、深夜の不気味な二つの脈動を完遂させたのだった。
その信号の余韻が消える間もなく、帝都の地下通信室では――。
海軍省・地下通信室。
湿った冷気が充満する中、原田と結城が命懸けで送信した二つの脈動が、電送機から断続的な音となって出力される。
同期モーターの唸りが止まり、静寂が戻った暗室で、頼はゆっくりと回転ドラムから、受信し終えたばかりの湿った印画紙を剥がした。
そこには、彼方の大陸から届いた【カ-四七一二・昭十】の数字が、走査線のノイズを纏いながらも、その無骨な存在感を剥き出しにして浮かび上がっている。
頼は海軍省の重厚な門をくぐり、自宅へと向かった。
あの二月騒乱の余韻冷めやらぬ帝都の街は、憲兵の巡回が激しい。
街灯の下を、重厚な軍靴の音が規則正しく通り過ぎる。
頼は、憲兵の視線を背中に感じながらも表情一つ変えず、淡々と、しかし足早に自宅の玄関を開けた。
玄関を抜けると、そこには血生臭い外界とは無縁の、微かな畳の匂いと家族の気配がある。
薄暗い居間、燈がそっと出してくれた冷たい麦茶のグラスを、頼は少し震える手で受け取った。
喉を通り抜ける冷たさが、今日一日、霞ヶ関で神経をすり減らした脳をわずかに鎮める。
頼は寝室へ入り、子どもたちの寝顔を覗き込んだ。
穏やかな寝息。
無防備な手のひら。
頼の脳裏をよぎるのは、計算尺が弾き出した確率、、、――この子らが成長した後、この空は誰の爆撃機によって焼かれるのか。
この平穏を、陸軍の傲慢な「兵站計算ミス」で破壊させてなるものか。
頼は、子らを起こさぬよう静かに書斎のデスクへ座った。
そこには、先ほど手に入れたばかりのシリアルナンバーと、陸軍造兵廠が参謀本部へ公式提出した「在庫月報」が並んでいる。
「誤差がある、、、」
頼は計算尺を手に取った。
竹とセルロイドの擦れ合う、小さく乾いた音。
計算尺が刻むのは、帝国が大陸で引き起こす泥沼へのカウントダウンだ。
頼は計算尺を弾く。
カチリ。
それは、単なる計測の音ではない。
彼の中で、陸軍という巨大なシステムを封殺するための「論理のロック」が掛かった音だ。
「石原がいくら高潔な戦略を描こうとも、現場がこの『数字』で動き出せば、防ぐ術はない」
頼はデスクに広げた海軍の兵站予算案を、ビリリ、と半分に引き裂いた。
もはや迷いはない。
「バグは修正されるのを待っているのではない。この瞬間も、帝国を内側から食い破っている」
頼は計算尺を机の端に叩きつけるように置き、立ち上がる。
窓の外には、暗い帝都が広がっている。
憲兵の巡回音が遠ざかるのを聞き、頼は懐から小さな手帳を取り出した。
そこには、山本五十六への「説得の要点」が簡潔に書き込まれている。
「数値なき理想にすがる思考停止の政治家連中、、、綺麗事ばかり並べる平和論者どもには、この数字が導き出す破滅の意味は分かるまい、、、ならば、俺がこの手でシステムの再起動をかけてやる。帝国の屋台骨を腐らせる前に、この【カ-四七一二・昭十】という異物を摘出する」
頼が手帳を閉じると、そこには淡々としたスケジュールのみが刻まれていた。
もはや夜は明ける。
頼は一睡もしないまま、海軍省の自席で軍務をこなしていた。
山積する書類の山。
保身と権益にまみれた、陸海軍の不毛な予算配分案。
「陸軍は兵站を偽装して戦線を拡大し、海軍はそれに便乗して『予算の増額』を勝ち取ろうとしている。国家予算という名のプログラムは、今や矛盾だらけのバグの塊だ」
頼は深夜に解析した【カ-四七一二・昭十】から導き出した「兵站崩壊の数値」を、極小の文字で書類の余白に書き込む。
立ち上がった頼の足取りは正確で、迷いはない。
彼が向かった先は、海軍省奥深くにある山本の執務室だ。
ノックもそこそこに扉を開けると、山本五十六が執務机に向かい、何かを書き留めていた。
その小柄な身体は、しかし、海軍という巨大な組織を掌握するに十分な威圧感を纏っている。
「吾妻、、、お前、まるで亡霊のような顔色だぞ」
頼は、手元の書類の中から一枚を抜き取ると、山本の背後に歩み寄った。
「閣下。陸軍が北支で動きます。演習の皮を被った、侵攻のカウントダウンです」
頼は簡潔に、しかし鋭く、解析結果を耳打ちした。
山本の目が、一瞬で獲物を狙う「戦場の眼」に変わる。
「貴様、これが本気か、、、!?」
頼は、山本の問いを鼻で笑うように切り捨てた。
「深夜に計算尺を叩き続けるほどの数値です。陸軍の首根っこを締め上げ、この大陸の泥沼を回避するためのデバッグ。その手順と結果、すべて揃っています」
頼が言い切った瞬間、山本の指先が机の隅の小皿へと伸びた。
山本は柿の種を一つまみ、傍らの湯飲みに張られた砂糖水へ放り込む。
カリリ、という微かな音を立てて、彼はそれを口へ運んだ。砂糖と醤油の香りが、沈黙する部屋に広がる。
山本はゆっくりと咀嚼し、嚥下してから、初めて頼の顔を見た。
頼の背筋を、氷のような緊張感が通り抜ける。
山本は短く頷いた。
その目には、もはや私情はない、あるのは戦場の眼だ。
歴史というプログラムの、運命を書き換えるコードが起動する。
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