脈動(パルス)
撮影されたフィルムは、夜陰を割る速度で天津の海軍武官室、その最深部にある暗室へと運び込まれた。
酢酸のツンとした匂いが鼻を突く暗室のなか、原田は真夏の汗を拭いもせず、手際よく作業に入った。
海軍特製の『強硬膜処理剤』をバットに注ぐ。
本来なら小一時間を要する現像・定着のプロセスを、濃度の高い薬液と攪拌の熱で、わずか数分にまで強引に圧縮する。
フィルムが溶け落ちるか、鮮明に焼き上がるか――そのギリギリの化学変化を、原田は秒単位の集中力でコントロールした。
「現像完了、、、よし、原板は上がった」
フィルムは加熱により乳剤が浮きかかり、いまにも剥がれ落ちそうにふやけている。
原田はそれを指先で優しく、しかし強引に密着ガラスに圧着させた。
その複製フィルムを現像バットへ叩き込み、像が浮き上がるや否や、手早く定着液へ移して固定する。
本来なら水洗に30分は要する工程を、原田は劇薬のメタノールに投げ込むことで無視した。
繊維の奥から水分を強制排除されたフィルムは、悲鳴を上げるように収縮し、異常なほど硬く仕上がっている。
わずか数分。
現場の薄暗い光の中で、海軍の意地が刻まれた一枚の「現物」が生み出された。
「完成だ、これが、海軍(俺たち)の意地だ」
原田はその原板を、真鍮製の『NE式模写電送機』の回転ドラムへ微塵の気泡も残さぬよう、几帳面に巻き付け、固定し、真鍮のドラムを荒っぽくロックするや、脇のレバーを接続位置へと叩き込んだ。
「上海・大北電信局から華北へ伸びる極秘回線は、海軍省直通の絶対権限で我々が物理的に占有した。ノイズ一つ許さぬ『完全独占回線』だ。陸軍の検閲網など、この高周波の濁流の前では無力だ!」
原田の鋭い命令とともに、オペレーターが電送機の主電源レバーを力技で引き絞った。
ハチッ。
──ブゥゥゥゥン! ドラムが規則的な重低音を立てて高速回転を始める。
モーターが臨界点に達した瞬間、重低音は空気を切り裂くような「キィィィィン──!」という、鼓膜を締め上げる不気味な金属高周波音へと跳ね上がった。
暗室の緊張感が加圧されていく。
ほぼ同時刻、北京の結城もまた、高純度アルコールで原板を瞬時に脱水し、ドラムへ滑り込ませていた。
「東京・海軍省の受信機2台を同時に回させる。天津の原田と我々の通信電位を同期させる。誤差は0.1秒以内。教官の計算尺が弾き出した、最も減衰の少ない周波数帯へ、、、合わせる!」
結城が引き金を引くと、北京の暗室にも天津と同じ高周波が脈動を始めた。
結城が引き金を引くと、北京の暗室にも天津と同じ高周波が脈動を始めた。
二台の真鍮の歯車が狂いなく噛み合い、回転するフィルムの表面に、極細の「光の針」が鋭く突き立てられた。
その一筋の光が走査していくのは、一触即発の熱気を孕んだ陸軍が極秘に出荷した新式天幕の検収印と、新式弾薬箱の表面に白ペンキで雑に殴り書きされたロット番号―― 【カ-四七一二・昭十】という物理的な現物証拠だった。
光学ヘッドがその数字を捉えるたびに、機械の奥の光電管が「チカチカ、ジジジジッ」と激しく脈動し、オゾン臭の混じった微かな放電の匂いを漂わせながら、言い逃れのできない電気信号の行列へと変換されていく。
そして、全走査が完了する、そのまさに最後の1秒。
原田と結城は、頼からの絶対命令(私的乱数表の指示)通りに、電送機の末尾にある平文入力用のキーをパチンと力強く叩き込んだ。
上海大北電信局の国際検閲の眼を完全に欺くための、ダミー隠語――『 観測機調整ノ為 』。
この暗号化されていない無防備な平文がデータの末尾に刻印された瞬間、国家の運命をひっくり返すための『最強の弾丸(現物証拠)』は、国際有線ネットワークを裏からハックし、海底電信ケーブルの底を伝って数千キロ離れた帝都・霞ヶ関へ――歴史を修正するための、深夜の不気味な二つの脈動を完遂させたのだった。




