漆黒のシリアル
深夜、豊台近郊に位置する陸軍兵站基地の倉庫裏は、むっとする草いきれと濃密な漆黒の闇に支配されていた。
街角の安宿を出て夜陰を割った結城は、地味な中国服(私服)の袖に両手を隠したまま、倉庫の巨大な影の中に完全に同化していた。
ザッ、ザッ、ザッ、、、。
見張りの陸軍憲兵が刻む軍靴の律動が、建物の角の向こうへ遠ざかる、わずか数秒のエアポケット。
(今だ、、、)
結城の指先が、躊躇なく袖の奥へと滑り込んだ。ファインダーは覗かない。
海大時代に頼から叩き込まれた空間認識能力が、闇のなかで対象との距離を正確に弾き出している。
独逸製小型機──『ライカⅢ型』を引き出すと、指先の手触りだけで沈胴式の五〇ミリ・エルマーレンズを前へと引き出し、右へひねってロックを合わせる。
指先から伝わる、金属の鏡筒が気密を保って滑り出す微かな抵抗感。
その後の『カチリ』というロックの感触には、緩みもガタツキも一切ない。
公差ゼロで設計されたドイツの工学精度が、闇の中で確かな頼りとなって結城の指に呼応した。
漆黒の中、無限遠の極小の金属ノッチの感触だけで、結城は被写界深度の逆算を完了させた。
ファインダーの枠が捉えたのは、豊台の武力衝突に向けて陸軍が極秘に出荷した『新式天幕』の山と、脇に積まれた『新式弾薬箱』の群れだった。
天幕の帆布に押された検収印と、木箱の表面に白ペンキで殴り書きされた製造シリアルナンバー── 【カ-四七一二・昭十】
──チッ。
夜の底に響いたのは、懐中時計の蓋を静かに閉めるような、極小の布幕シャッター音だった。
真夏の澱んだ熱気のなかに一瞬で吸い込まれて消えたその静かな引き算の音こそが、陸軍の予算書の虚構を暴き、歴史の強制力をひっくり返すための、絶対的な物証となった。
結城は音もなくライカを中国服の奥へと戻すと、再び北京の冷酷な闇のなかへと、その航跡を消した。
一方、天津・大沽近郊の臨海兵站倉庫。
夜の底に響く潮騒のノイズを、原田少佐は真夏の汗を拭いもせず、鋭い眼光と共に聴いていた。
(あんな陸のバカども、我が陸戦隊の重火力で今すぐ圧殺してやりたい──)
かつては大艦巨砲の物量こそが絶対だと妄信していた猪突猛進さ。
それが血走った殺意となって突き上げた瞬間、頼の乱数表の文字が、原田の暴走に制動力をもたらした。
(教官の言う通り、力で圧殺した瞬間に帝国の兵站は内側から破滅する。この現場の動かぬ数字を毟り取る方が、あの傲慢な石原を締め上げられる)
原田は獰猛に冷たく笑うと、中国服の懐から『ライカⅢ型』の真鍮ボディを荒々しく引き抜いた。
見張りの憲兵が煙草に火をつける、わずか数秒の静寂。
(今だ)
原田は指先で沈胴レンズを瞬時に引き出し、右へ捻り込む。
鋼鉄同士が組み合う重厚な手応えと共に、ピタリと不動の剛性が宿る。
闇を切り取ったファインダーを覗く間もなく、指先の感触だけで無限遠のカチリという金属ノッチに合わせ、さらに絞りをf/4まで追い込んだ。
いままで手にした現場の野暮ったい官給品とは別格の、手の中で完結する完璧なドイツの工学。
その狂気的なまでの噛み合わせの精度。
原田はその金属の冷たさを掌で殺し、闇の中に照準を固定した。
闇を切り取ったファインダーの枠が捉えたのは、積み上げられた天幕と、白ペンキで殴り書きされたロット番号── 【カ-四七一二・昭十】の文字。
──チッ。
金属と絹の布幕が擦れ合う、夜の熱気に一瞬で吸い込まれるような静かな消音。
その一発の音だけで、陸軍の国策基準の嘘は、言い逃れのできない不滅のネガフィルムの中へと永遠に幽閉されたのだった。
(あとは、これを帝都の教官のもとへ届けるだけだ、、、)
「よし、、、例の『模写(写真電送)』で、あの傲慢な連中を地獄へ叩き込んでやるとするか」
原田は夜の闇を見上げ、冷たく静かな笑みを浮かべた。




