♾️(無限)の覚悟
真夏の熱気と、通りから吹き込む乾いた馬糞の匂いが、場末の安宿の一室に澱んでいた。
北京の夜は、帝都のそれよりも遥かに暗い。
窓の隙間から差し込むわずかな月光のなかに、地味な中国服(私服)を纏った結城少佐の横顔が、陰影の深いクローズアップとなって浮き上がっている。
じっと目を閉じ、枕元に置いた木箱のラジオから引き回された細いゴムチューブを、耳に深く差し込む。
結城は、つまみをミリ単位でゆっくりと回し、ノイズの海から信号を拾い上げた。
やがて、その雑音の彼方から、規則的な律動が刻まれ始めた。
チカチカ、トトツー、トト──。
霞ヶ関の海軍省地下通信室から直接、東シナ海をぶち抜いて送り込まれてくる、頼の電鍵の駆動音だった。
結城は目を開けると、手元に広げた海大教官時代の「私的な特別大判乱数表」へと指先を滑らせた。
陸海軍の公式暗号を一切使わない、組織の検閲の目を完璧に欺く秘匿コードである。
カチリ、カチリと乱数表を几帳面にスライドさせ、鉛筆の先で、送られてくる数字の行列を1文字ずつ冷徹にデバッグしていく。
やがて、文末に添えられた『観測機調整ノ為』の文字列を引き絞った瞬間、結城の鉛筆がピタリと止まった。
それが、上海海底ケーブルの回線ハックと、今夜の作戦開始を告げる頼からの「最終合図」だった。
結城は腕時計を見ることもせず、ただ手元で鉛筆をくるりと回転させた。
(なるほど、、、陸軍の暗号解読など時間の無駄。天幕と弾薬箱の白ペンキのシリアルを、現物の数字として毟り取れ、か。相変わらず、数字に対してどこまでも非常な吾妻教官らしい。だが、この物証さえ帝都へ叩き込めば――あの傲慢な陸軍の連中を、完膚なきまでに出し抜ける)
結城は静かに立ち上がると、枕元に置いてあった独逸製小型機――『ライカⅢ型』の冷たい黒い革ケースの感触を、指先でそっとなぞった。沈胴式の50ミリ・エルマーレンズが、闇のなかで妖しく光を反射している。
一方、北京から東へ約百二十キロ。
天津の海軍武官室の片隅は、じっとりとした不快な静寂に包まれていた。
窓の外の闇の奥からは、豊台の拠点を不法に拡大しようと蠢く陸軍過激派の兵士たちが刻む、不気味な軍靴の足音が絶え間なく地響きとなって響いている。
「原田少佐、帝都の吾妻中佐からの緊急電文です!」
電信兵が引き剥がした紙片を、原田は脂汗を拭いもせず、乱暴に毟り取るようにして奪い取った。
海大の教壇で頼の講義を受けるまでは、大艦巨砲の物量と皇国の武威こそが絶対だと妄信していた猪突猛進の男である。
しかし大陸の歪んだ熱気に当てられた彼の脳内では、今まさにその獰猛なスイッチが火を噴きかけていた。
(天津の我が陸戦隊を動かせば、陸軍の過激派など一瞬で圧殺できる!)
そんな血走った衝動が喉元まで突き上げた瞬間、頼の叩き出した「私的な特別大判乱数表」の冷徹な数字が、原田の脳髄に鋭いブレーキをかけた。
『天幕および新式弾薬箱の表面に刻印されている、造兵廠の製造シリアルナンバーの確認』
「チッ!」
原田は電文の紙を、骨が白くなるほどの力で握りつぶした。
だが、その瞳に宿ったのは直情的な怒りではない。頼によって脳髄のインフラに叩き込まれた、あの冷徹な『計算尺の眼』の光だった。
原田は窓の外の暗闇を睨みつけ、低く、冷たく笑った。
(なるほどな、、、。大砲を撃って派手に戦線を広げるなど、書類整理しか能のない馬鹿どもの浅知恵だ。教官の言う通り、現場の動かぬ数字を毟り取り、帝都へ電送する方が――あの高尚な理想主義に溺れた傲慢な石原を出し抜けるってわけか)
原田は握りつぶした紙を、武官室の灰皿へと放り捨てた。
「夜陰を待つぞ。陸軍の犬どもに、我らが物理的な証拠を握ったことなど、露ほども悟らせるな」
その言葉は、まるで精密な歯車が噛み合うような響きを持って、天津の夜の底へと沈んでいった。
原田は通信兵を下がらせると、引き出しから小型の懐中電灯を取り出し、懐に忍ばせた。
北京の結城もまた、独逸製ライカを上着の深淵に隠し、闇へ溶け込む準備を終えているはずだ。
(今夜、あの『傲慢な理想』を叩き折るための、最初の一桁を奪いに行く、、、)
脳裏に焼き付いた暗号の数字を、原田は自らの意思で静かに消し去った。
闇の向こう側で待つのは、陸軍の傲慢か、それとも導き出された唯一の解か。
結城と原田は、それぞれのライカを携え、音もなく北京と天津の闇へと溶け込んでいった。




