観測機調整ノ為
海軍省の一室、山本五十六が去った後、頼は受話器を取り、高木清寿の私邸へとダイヤルする。
わずか十数秒の接続を待って、硬質で落着きのある男の声が聞こえた。
『はい、高木でございます』
「高木殿、海軍の吾妻です」
『――ああ、吾妻中佐ですか。わざわざのご連絡、恐縮です』
「山本閣下から、奥方が夏風邪を召されたと伺いました。この帝都の澱んだ熱気です、さぞや御労しいこととお察致します。閣下も大変に気を揉んでおられます。つきましては、26日の日曜日、提督の私的な御見舞の随行(運転手)として、虎屋の羊羹を携えてそちらの御宅へお伺いさせていただきたいのですが、御都合はいかがでしょうか?」
『叔父が、、、わざわざ三千代のために、恐縮です。日曜日の午後でしたら、当方も在宅しております故、喜んでお迎えいたします』
高木の応答は滑らかだった。
「ありがとうございます。では、26日の日曜日に山本閣下と伺います。」
頼は受話器を静かに戻した。
これで日曜日、高木邸の茶室へ突撃するための「一切の疑いのない親族の見舞い」という防衛線は完璧に計画されたのである。
あとは、あの傲慢な陸軍の最高脳内システム(石原)の喉元へ突きつけるための、冷徹な数字の爆弾(シリアルナンバーの物証)を、25日の土曜日までに上海から毟り取るだけだった。
翌7月22日、水曜日。
海軍省内の廊下は、真夏の湿気と軍靴の足音で澱んでいた。
頼はドアを静かにノックし、感情を交えないいつもの表情のまま入室した。
デスクの前に立つ山本の背中に、頼の声が向けられる。
「山本閣下。高木邸への手筈は整いました。26日の日曜日、三千代殿の夏風邪のお見舞いという名目で、私も同行いたします」
山本は、手元の人事書類から顔を上げると、ふっと悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。
「そうか、吾妻。すまないな。高木の家に行くと思うだけで、どうにも朝から胃が痛むわ。気休めにまた虎屋の羊羹を一竿用意してあるが、これでは腹ばかり膨れてしまうな、はっはっは」
山本は豪快に笑ったが、その瞳の奥には、大陸へ向かう視線のような深い憂いが混ざっていた。
彼もまた、身内の若者が陸軍の無謀な暴走の生贄にされるのを、誰よりも恐れている本物のリアリストなのだ。
「閣下、お任せください。作戦はすでに動いております」
頼は短く一礼すると退室し、その足で海軍省の最深部、地下の暗号室へと直行した。
重い鉄扉を開けると、そこは無数の電信機が規則的な駆動音を刻む、霞ヶ関の通信本部だった。
頼は、陸軍の堅牢な機械式暗号を一撃で解読するという、物語じみた都合の良い発想はとうに捨てている。
犬猿の仲である陸軍が、海軍に暗号の鍵を渡すはずもない。
頼は、海軍大学校の教官時代に自ら構築した「私的な特別大判乱数表」を広げ、通信士の傍らで電鍵を叩き、暗号の引き金を絞り出した。
『結城、原田、陸軍の暗号通信を解読する必要は一切ない、時間の無駄だ。貴官ら二人が現在潜入している北京および天津の各拠点、それぞれの情報を上海の武官室へ集約せよ。通信は海軍の一般暗号を装い、文末に『観測機調整ノ為』と付記せよ。それが上海への集約合図だ。
お前たちがやるべきは、北支へ送り込まれている陸軍の『天幕』、および『新式弾薬箱』の表面に白ペンキで刻印されている、造兵廠の製造シリアルナンバーの確認だ。夜陰に紛れて例の独逸製小型機で隠し撮りし、上海大北電信局の夜間待機オペレーターを『海軍省直通』の権限で黙らせ、回線を確保しろ。NE式模写電送機にドラムをセットし、海底電信ケーブル経由で帝都へ送れ。電送完了後は、直ちにネガを焼却し、陸軍の犬どもには、我らが『物理的な証拠』を握ったことなど、露ほども悟らせるな。以上を以て、通信終了。......吾妻」
頼は、送信を終えると、打ち終えた電鍵から静かに手を離した。
陸軍造兵廠の出荷記録と、上海での現物番号。
この二つが合致した瞬間、石原が主張する『不拡大』という防波堤は、現場の暴走を覆い隠すための虚構に過ぎなかったことが、数字の上で証明される。
頼の計算尺は、すでにその致命的なバグを正確に弾き出していた。




