甘美なる提督の憂い
1936年7月21日、海軍省の一室。
窓の外では、蝉の声が狂ったように響いている。
あの二月の騒乱の余韻はいまだ冷めやらず、帝都の空気は、今にも爆発しそうな火薬の如き不穏さを孕んでいた。
誰かが一言、開戦を口にすれば、容易に引き金が引かれる――今の日本は、そんな危うい均衡の上に成り立っている。
窓の外の湿った熱気が澱む部屋で、デスクの上に置かれた電報の束は、頼にとって大陸からの「心拍数」そのものだった。
結城からの簡潔な電文にはこう記してある。
『北京周辺の陸軍配備に異常なし。ただし、夜間の巡回兵の足音が、訓練時とは異なる律動を刻んでいる。彼らは何かを待っている。それが「敵」なのか「命令」なのかは不明。――結城』
原田からの電文は対照的に荒ぶっている。
『天津の陸軍の連中、顔つきが変わりました。精神論で勝てると本気で思い込んでいるようです。一触即発です、俺たちが先制してもいいというなら、いつでも(我が陸戦隊を動かして)掃討できます。――原田』
頼は結城と原田の署名を見て、ふと三年前、海軍大学校の教壇で過ごした日々を思い出した。
(結城はあの頃から石橋を叩いても渡らない男だった。そして原田はといえば、かつては大艦巨砲と皇国の武威を妄信する向こう見ずな若造だったな。俺の講義で、数字と兵站の冷徹さを叩き込まれるまでは)
あの日、大尉として頼の前にいた教え子たちも、今や少佐となり、大陸の最前線で帝国の命運を左右する駒として立ち回っている。
だが、あの慎重な結城が配備の違和感に言葉を濁すという事態。
そして、あの猪突猛進だった原田が、掃討という言葉を使いながらも、頼の「合図」を待っているという静寂。
(二人とも、随分と大陸の空気に染まったものだ、、、余計な感傷は不要か、、、いや、それとも俺こそ染まったのか、、、)
頼は小さく呟くと、電報の束を整え、表情を再び冷徹な『管理者』のそれへと戻した。
彼らはもはや教え子ではない、歴史を修正するための、最も信頼に足る『センサー』だ。
頼は静かに計算尺を置いた。
どちらの報告も、この巨大な機械(帝国)が、停止不可能な暴走モードへ移行しかけていることを示唆している。
そこへ、山本五十六が重い足取りで入室してきた。
彼のその表情は、いつもの冷静な提督のものではなく、困惑した親族のそれだった。
「吾妻、お前に個人的な相談がある。軍務とは別の、身内のことだ。聞いてくれるな?」
山本は椅子に腰を下ろすと、少しだけ肩の力を抜いた。
「高木清寿という新聞記者がいる。石原莞爾の腹心を務めている、、、わしの姪、三千代の婿なのだ。正直、毎日胃が痛くてな。紛らわしに虎屋の羊羹ばかり食っておるわ。吾妻も知っておるな? はっはっは」
山本は豪快に笑ったが、その瞳の奥には大陸へ向かう視線のような深い憂いが混ざっている。
頼は耳を疑った。
石原の右腕、高木清寿。
その名前は、頼にとって、陸軍という堅牢な要塞を内側から開くための「唯一の鍵」だった。
頼は表情を崩さず、静かに計算尺を指でなぞる。
心臓の鼓動がわずかに速くなるのを、呼吸を整えて押さえ込んだ。
これは偶然ではない、引き寄せられたのだ。
頼は、指先に伝わる計算尺の冷たい感触に集中した。
山本が口にした「羊羹」という日常的な甘味と、大陸から届く「結城」と「原田」の血なまぐさい報告。
それらの矛盾する事象を、頼は脳内で一つの行列として組み替えていく。
(石原莞爾という男の『最終戦争論』は、高潔な理想主義という名のバグを抱えている。だが、その論理を補強し、支えているのが高木清寿という優秀な秘書だ。高木をハックできれば、石原の脳内にある『開戦シミュレーション』の重み付けを、根底から書き換えることが可能になる、、、さらに、虎屋の羊羹、、、。それは、帝国を焼き尽くす炎を鎮めるための、最も甘美な『鍵』になるかもしれない。)
「ええ、存じ上げております、、、閣下、もしその高木清寿氏が兵站の算術でお困りなら、海軍の専門家として、一度お話を伺っておくのも手かもしれません。陸軍の無謀を止めることは、ひいては我々の防衛網を守ることにも繋がりますから」
「そうか、、、お前がそう言ってくれると助かる」
山本は満足げに頷いた。
彼は頼がこの機会を、いかなるデバッグの準備として利用しようとしているのか、知る由もない。
頼は電報の束を整え、山本に背を向けた。
背中越しに、山本の憂いを帯びた視線を感じる。
高木清寿という男を介して、陸軍の最高脳内システムにアクセスする。
それは、この時代において最も高度で、かつ成功率が未知数の「歴史のデバッグ」だった。
(戦艦の主砲を向けるよりも、たった数行の兵站計算書と、切り分けられた羊羹の方が、この国を救えるかもしれない)
頼の瞳には、すでに高木家の茶室で石原莞爾と対峙し、その論理を物理的にねじ伏せる、その光景が映し出されていた。
頼は電報の束を裏返し、次の「戦場」へと思考を巡らせる。
高木家、そこで虎屋の羊羹を囲む三人の男たち。
これから始まるのは、戦艦も大砲も使わない、歴史を修正するための最も静かな戦争になるのかも知れないのだ。
「閣下、高木氏には、私が連絡しておきましょう」
頼の言葉は、まるで歯車がカチリと噛み合うような響きを持っていた。
その時、帝国の運命は、霞ヶ関の海軍省から大陸の橋へと、目に見えない糸で繋がれた。
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