矜持と遺物
明けて翌日、7月20日月曜
前夜、上大崎の書斎で「山崎への餞別(二号機)」を完璧な状態に封じ直した頼は、いつも通り海軍のエリート士官としての仮面を被り、海軍省へと登庁していた。
昨日、鈴木侍従長に「心にコンクリートを流し込んでいる」と評された男の頭脳は、週明けの業務開始と同時に、再び超高速の演算回路へと切り替わっている。
夏の重苦しい湿気のなか、頼は山積する兵站計画の修正案を処理し、そのまま山本の執務室のドアを叩いた。
「山本閣下。こちらが九六式陸上攻撃機の量産体制の構築、およびアルミニウム等の工業規格を統一化した、物資等修正案です」
頼が提出した、今後の航空戦力と大量生産を見据えた書類を、山本五十六少将は手元でパラパラと捲った。
その猛禽のような鋭い眼光が、書類の数字を鋭く走査する。
やがて、五十六はニヤリと不敵に笑い、書類をデスクに放った。
「吾妻。お前の目に見えている景色は、わしらのそれとは違うな?何を見ている?何が見えている?いや、もうこれ以上言うまい、、、」
その言葉に、頼は内心の動揺を1ミリも表に出さず、ただ海軍中佐としての一礼を返した。
その情報の暴力を胸の奥に隠し、頼は夕暮れの築地を後にした。
だが、五十六のあの言葉は、頼の脳内で奇妙なノイズとなって残り続けていた。
見えている景色。
それがどれほど残酷な呪いであるかを、頼はこの日の深夜、己の血を吐くような悪夢で思い知ることになる。
上大崎の自宅に戻れば、そこには昼間の軍務とはかけ離れた「柔らかい世界」が待っていた。
「頼さん、お帰りなさい」
白い割烹着姿の燈が、出迎えの笑顔を見せる。
その笑顔だけで、頼の脳内の演算疲労がすっと溶けていく。
「お父さん!」
五歳になった長女の絢がタタタと廊下を走ってきて足元に組み付き、まだ幼い長男の継が無垢な瞳で甘えてくる。
燈が用意した温かい夕飯を囲み、たわいもない家族の会話を交わす。
(この笑顔を、この小さな温もりだけは、絶対に手放してはいけない、、、)
子供たちの髪を撫で、優しく布団に寝かしつける。
この上なく愛おしく、そして歴史の激流の前にはあまりにも壊れやすい日常。
それを静かに噛み締めながら、頼は家族の寝息を聞いた。
深夜、家族が完全に寝静まった書斎に頼は一人、籠もった。
天井の安っぽい電灯は消している。
部屋を照らすのは、机の上に置かれたランタン『白光社第三號型白光燈』、あの光だ。
轟音を響かせ放たれるその確かな光の下で、頼は真鍮の海に沈むパーツを睨み、そして山崎のことに思考を走らせていた。
張り詰めた緊張感、そして深夜の疲労。
白光燈の白光を見つめているうちに、頼の意識は引きずり込まれるように、机の上でうたた寝へと落ちていく、、、。
耳をつんざくような爆音――。
甲高い金属音、焼け焦げた煙の匂い。
重油が混じった海水が押し寄せる。
誰かが叫んでいる。誰かが燃えている。
誰かが……。……死んでいく。
意識の奥底から浮かび上がるそれは、夢とも現実ともつかない、絶望の断片だった。
炎に包まれた艦体、砕けた艦橋、血まみれの制服、鉄と肉の匂い。
沈みゆく船の傾斜。足元を奪う水の冷たさ。
沈黙する瞳。――自分自身の、ものだ。
「……っ!」
息を呑み、汗びっしょりで跳ね起きた。
荒い呼吸のまま、バクバクと暴れる心臓を押さえる。
書斎の壁の日めくりカレンダーには、無情にも【昭和十一年七月】の文字が静かに佇んでいた。
(2度目、、、?俺が見たのは、あの時と同じ、、、?記憶なのか、それともビジョン、、、?)
荒い呼吸のまま机に突っ伏し、冷え切った机の天板に額を押し当てる。
一呼吸つき、頼は机の上を見つめた。
祝言のあと撮影した「五人の家族だけのセピア色の写真」がある。
そのすぐ傍らで、彼を待っていたのは『二度と戻れない、あるはずのない物』だった。
震える手を握りしめ、自らに言い聞かせるように大きく息を吐き出す。
それから引き出しの最奥から、あの「異物」を取り出した。
指先が冷たい金属に触れた瞬間、頼の背筋に氷柱が通ったような戦慄が走る。
絶対にこの時代には存在しない工業規格で作られた、冷たくて硬い、「アパートの鍵」だ。
あの日、この鍵を握り締めたまま、俺は、この時代に来て、俺になったんだ。
その事実に、一度は指が震え、心臓が凍りつくような感覚に囚われる。
だが、頼は力任せに鍵を握りしめ、痛覚で思考のノイズを強制終了させた。
(いや、吾妻頼、やるべきことはとうの昔に決めたはずだ、、、!)
頼の瞳から迷いが消え、代わりに、地獄すら焼き尽くしかねない「修羅の覚悟」が宿る。
だが、その覚悟の重圧に、また指先が震えた。
自分がこれから成し遂げようとしているのは、果たして、いま存在している、この幸福を護るためなのか、それとも壊すための免罪符なのか。
頼は逃げるように視線を逸らし、書斎の壁に無造作に立てかけられた一枚の図面へ目を落とした。
それは、自宅の新築の際の、大工の幸阪巻夫青年が誇らしげに広げた間取り図だった。
『吾妻さん、この家は百年保つように柱を組みます。家族が笑って過ごせる場所を、俺が責任を持って建てますから』
まだ少年の面影が残る彼が、カンナ屑の舞う現場で、真っ直ぐな瞳で語った言葉。
ただ、一人の職人として、ある家庭の幸福という名の「箱」を懸命に組み上げていたのだ。
頼は、その図面の余白に刻まれた、幸阪の几帳面な筆跡を指でなぞる。
自分たちが享受しているこの平和な日常は、こうした名もなき市井の男たちの誠実な汗の上に成り立っている。
あの時、幸阪青年が震える手で『一生の宝物にします』と誓った、あの記憶が脳裏をよぎる。
青年は、自分がこれから建てるこの家が、百年の先まで残ると信じて疑わなかった。
しかし、その真っ直ぐすぎる信頼の眼差しは、ひどく眩しく、同時にひどく切なかった。
その純粋な職人としての矜持に、海軍士官として敬意を表したくなったのだ。
上棟の祝いの席で、頼は自身の襟章を外し、青年の掌にそっと置いた。
「これを、、、俺の宝物にします!」
青年は少年のように目を輝かせ、壊れ物を扱うようにそれを握りしめた。
それが、後に幸阪青年の中でどれほど大切なものとして扱われることになるのか、今の頼には知る由もない。
ただ、守らねばならない。
この穏やかな空気を、この不器用な誠実さを。
頼は机上の『白光燈』の灯りを消し、深い闇の中へと歩を進めた。




