日傘の影、芽吹く季節と
翌7月19日、日曜
本来であれば、この日曜も山積する兵站計画の修正に追われるはずだった。
しかし、頼はあえて家族を伴い、鈴木邸の門を叩いた。
鈴木邸の庭には、きらきらとした陽光が注いでいた。
しかし、その下で交わされる言葉には、かつての宴のような「無邪気な未来への期待」は存在しない。
鈴木貫太郎は、痩せてなお鋭い眼光を、吾妻家の四人に向けた。
その傍らには、妻のたかが、静かな慈愛を湛えた微笑を浮かべて控えている。
「絢ちゃん、随分と大きくなったねぇ。あの時は、土いじりに夢中だったね」
鈴木が弱々しく笑うと、五歳になった絢は、母の背中に隠れながらも、三年前の記憶の断片を探るように首を傾げた。
「鈴木のおじいちゃま。また、あのお菓子、もってくるねっていったの、おぼえてる?」
「ああ、もちろんだ。約束を守ってくれたんだね、えらいねえ」
傍らでは、継が、何も知らぬ無邪気さで鈴木の枕元の装飾品を指さし、
「これ、なぁに?」
と無垢な声を上げる。
かつて新築の家で「家宝」として祝ったその命が、今、老境の静寂に包まれた部屋で「生」の対比としてそこにいた。
燈は、鈴木のやつれた手を取り、静かに頭を下げた。
「鈴木様。あの時、新築の我が家でいただいたお言葉が、今でも私どもの重心を支えております。夫は、、、頼さんは、少しばかり不器用で、今は外の風ばかりを気に病んでおりますが」
「いや、燈さん、、、」
鈴木は、傍らに座るたかの手の上に自分の手を重ね、それから頼の方へ目を向けた。
その眼光は衰えるどころか、かつての激動をくぐり抜けた者特有の研ぎ澄まされた重みを湛えている。
「吾妻君のそれは不器用ではない。ただ、愛するものを守るために、自らの心に『防壁』を築きすぎただけだ。あの日、彼が建てた家は頑丈だったが、今の彼は、自分の心にまでコンクリートを流し込んでいるようだ」
頼は、その指摘に押し黙った。
部屋の空気が殺伐と張り詰める。
鈴木の鋭い洞察は、頼が書斎で大陸の兵站をハックしようとしている「修繕者としての狂気」を瞬時に見抜いていた。
「侍従長、、、今の帝都は、コンクリートでは防げないほど、火薬の匂いに満ちています」
頼の声は低い。
その目は、老いた侍従長を見ているようで、その裏に広がる大陸の暗闇を演算していた。
「私は、大切なものを守るためには、その火薬そのものを無力化するしかないと判断しました。これは論理です」
「論理、か」
鈴木は、絢の髪を優しく撫でた。
絢はその手の温もりに、少しだけ安心したように頬を緩める。
「君は、その子たちが生きる未来のために、今、君自身を『武器』に変えようとしている。山本君の言う『面白い男』というのは、自分の手で地獄の門を開けに行く男のことだったのかね」
帰り際、頼が玄関先で靴を履いていると、鈴木が声を絞り出した。
「吾妻君。君が守ろうとしているのは『計算』ではないはずだ、、、あの日の、君の家族の温もりそのものだ。それを忘れるな」
(もちろん忘れてなどいない。俺がこれを作るのは、この手の中にある柔らかい温もりを、二度と歴史の泥濘に触れさせないためだ、、、)
帰り道の坂道。
絢が「おじいちゃま、やせてたね」と呟く。
頼は娘の小さな手を握り返した。
その手は、真鍮を磨き上げた自身の指先よりも、ずっと柔らかく、壊れやすい。
「ああ、そうだよ。だからこそ、守らなきゃいけないんだよ」
「何を?」
継が、無邪気に問いかける。
頼は、沈みゆく帝都の夕陽を見上げた。
その瞳の奥には、山崎へ送る二号機の冷たい重みと、それを放つことで断ち切るべき「大陸の運命」があった。
「それはね、お前たちが、大人になっても、今日みたいな日曜を過ごせる世界だ」
頼の声は、修羅場を潜り抜けた男特有の、静かで、しかし拒絶を許さない優しさを孕んでいた。
燈は、夫の横顔を一瞥し、すべてを悟ったような複雑な笑みを浮かべた。
「頼さん、、、帰ったら、お菜の工夫、ちゃんとしますね」
「ああ、頼む。だが今夜は少し、贅沢をしてもいい。俺が、計算を少しだけ狂わせてきたからな」
書斎に戻れば、闇が待っている。
しかし、その闇を焼き切るための二号機は、すでに完璧な調整を終え、梱包の紐を解くのを待っている。
頼は、我が家の玄関の引き戸を閉めた。
その背後で、かつて鈴木貫太郎を招いたあの「頑丈な壁」が、これから始まる外の世界の狂気から、わずかばかりの日常を隔絶していた。
書斎へ入ると、頼は梱包の端をわずかに開き、指先で真鍮の感触を確かめた。
(これは、あの日の景色をそのまま次の季節へ運ぶための鍵だ)
頼は二号機を再び覆い、山崎への「餞別」として完璧な状態に封じ直した。
これで、すべてが整ったのである。
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