修繕者(デバッガー)のリスト
1936年7月18日土曜
海軍省の庁舎は、週末とは思えぬ重苦しい熱気に包まれていた。
北京近郊の不穏な動きを告げる電報が、まるで湿った蜘蛛の糸のように通信室から吐き出され続けている。
頼は、山崎から届いた絵葉書を胸ポケットにしまい込み、執務室の窓から外を眺めた。
空は高く、夏雲が巨大な入道雲へと成長しようと蠢いている。
「山崎、お前の戦場は、もうすぐそこまで来ているかもしれない」
デスクの上には、北支方面の兵站ルート図と、膨大な補給物資の調達計画書が広げられていた。
すでに我が家の書斎で、新品の二号機は過酷な環境に耐えうるよう、細部まで徹底的に調整を終え、頑丈な布に包まれている。
残るは、山崎の部隊が巻き込まれる『不毛な火種』そのものを回避するための微調整だけだ。
頼の指先は、山崎の赴く上海を経由し、北支へと至る艦隊の補給計画表の上を、計算尺を滑らせるように駆け巡っていた。
狂ったシステムを止めるには、回路の途中に「正しいノイズ」を混ぜるしかない。
頼は、鉛筆を走らせながら、独りごちた。
「この駆逐艦の重油配分を0.5%削る、、、海軍省の帳簿上は、わずかな機材トラブルによる航続距離の減衰として処理できる範囲だ」
彼の指が、軍令部の計画図に赤い線を引く。
「この微調整により、補給の優先順位は必然的に書き換わる。上海の南、補給の停滞地が発生する海域へ、山崎の乗る艦を二週間、意図的に立ち往生させる。これで、あいつを火薬庫の外側へ押し出せる」
頼は、鉛筆を置いて小さく息を吐き出した。
だが、その表情に安堵はない。
山崎一人を救ったところで、大陸というシステムの「発熱」は止まらないことを、彼は誰よりも理解しているからだ。
(北京近郊の不穏な動き――あの澱んだ空気が、何らかの拍子に発火する。連中の杜撰な計画書を見れば分かる。近いうちに必ず、現場で制御不能な小競り合いが起きる、、、その時、山崎の部隊がその場にいなければ、あいつが歴史の『生贄』になることはない)
だが、それだけでは足りない。
(大陸全体に蔓延するあの「発熱」を冷やすには、現場に思考停止するほどの「手順」を植え付ける必要がある、、、石原大佐。あんたのプライドなら、必ずやれるはずだ、、、)
これは、将校たちの誰も気づかぬ、あまりに精緻で非情な、しかし完璧な「論理の改ざん」だった。
頼は誰にも知られることなく、書類の数字に静かな修正を加えていく。
この数値を入力した瞬間から、山崎の運命は、本来辿るはずだった戦場から数ミリだけ逸れる。
デスクの上のペンを置き、頼は大きく息を吐き出した。
外では、帝都の午後の日差しが、まるで何事もなかったかのように平和な影を落としている。
だが、頼の心の中では、既に巨大な歯車が軋んだ音を立てて逆回転を始めていた。
彼が書斎へ戻り、梱包を終えた二号機の紐を解くのは、今夜のことである。その時、真鍮の塊は、友を導くための「光」へと昇華される。
ふと窓の外へ目をやると、執務室の空を覆っていたあの鬱陶しい入道雲がいつの間にか千切れ、湿り気を孕んでいた重苦しい空気が、力強い夏の日差しに焼かれ尽くされていた。
長い梅雨を押し流したかのような、突き抜けるような青空が広がっている。
頼はその一点の曇りもない空を見上げた。
彼が今日、この部屋で犯した「罪」の分だけ、山崎が生き残る確率が上がる。
迷いは消えていた、計算尺が示す解は、いつだって冷徹で、そして誰よりも誠実だ。
彼が今日、この部屋で犯した「罪」の分だけ、山崎が生き残る確率が上がる。
それで十分だった。
計算尺が示す解は、いつだって冷徹で、そして誰よりも誠実だ。
彼は静かに執務室を出た。
重い扉が閉まる音は、まるで修繕を終えた回路がカチリと噛み合うような、乾いた響きを立てていた。




