救う光と奪う闇
1936年7月
二号機のポンプノブを一度だけ、ゆっくりと押し下げた、あの夜から三日が過ぎていた。
頼は、天井の電灯を消していた。
書斎の机の上、一号機が放つ圧倒的な白光だけが、二号機のバラされたパーツを冷酷なまでに鮮明に浮かび上がらせている。
当時の貧弱な電球では、真鍮の表面に潜む微細な歪みや、ニップルの孔の影を拾いきれない。
何より、山崎がこれから対峙する『大陸の闇』を想定するならば、同じ波長の光でデバッグするのが最も合理的だ、と頼は思考を走らせていた。
拡大鏡を覗き込む。
一号機の白光に照らされたニップルの穴は、まるで月面の見えないクレーターのように、頼の網膜にその細部を晒していた。
それを一本の針で、丁寧に、執拗に突き通す。真鍮の冷たい手応えだけが、頼の指先に「世界の正気」を繋ぎ止めていた。
――その時、ラジオが欧州の絶叫を拾った。
『一九三六年、七月十七日。スペイン、モロッコにて軍部が蜂起――』
頼の指先が、わずかに止まる。
(ついに始まったか、、、。全面衝突が)
スペイン内戦。
のちに第二次世界大戦の「リハーサル」と呼ばれることになる火蓋が切られた。
欧州のOSが物理的に壊れ始めたという報は、頼の「次はアジアだ」という確信を、冷徹なまでに加速させた。
翌朝。
艦政本部に登庁した頼のデスクには、山崎からのあの絵葉書と並んで、一枚の無骨なメモが置かれていた。
『至急、参謀本部へ。石原』
二・二六事件の折、石原莞爾の背中を支えてやった際に作った「巨大な貸し」。
海軍中佐・吾妻頼が持つ、陸軍の天才に対する『管理者権限』を行使する時が、想定よりも早く訪れた。
「石原大佐。相変わらずの唐突なお呼び出しですね」
三宅坂、参謀本部の一室。
石原は巨大な地図を前に、鋭すぎる眼光で大陸を走査していた。
あの二月の反乱を経て「満州国の完成」に執念を燃やす彼は、もはや一軍人の枠を超えた狂気を孕んでいる。
「吾妻。スペインで火の手が上がった、当然知っているな?世界がまた再起動を求めている。今こそ満州を固め、対ソ連の要塞を築く。それまで北支では喧嘩をせん。これが私の設計図だ」
石原は熱っぽく『最終戦争論』の断片を語る。
だが、頼の網膜には、石原が視ていない「透過レイヤー」が投影されていた。
「石原閣下。あなたの設計図には、致命的なバグがある」
頼は、艦政本部で算出した工作機械の輸入統計と、大陸の泥濘を焼き切るために準備した二号機の質量を思い浮かべた。
「閣下は『戦略的停戦』を唱えるが、現場の小隊長が引き金を一回引けば、その瞬間にシステムは全面衝突する。感情という名のバグは、あなたの理想など待ってはくれません。米英が工作機械と燃料を遮断すれば、あなたが理想とする彼の満州の地はただの動かない鉄屑に成り下がりますよ」
「吾妻、、、貴様は数字を信じすぎているぞ」
「数字は裏切りませんよ。裏切るのは、計算尺を持たぬ人間の熱狂ではありませんか?」
頼の脳裏に、横須賀の官舎で海軍兵学校を夢見る山崎の息子、隼人の顔が浮かんだ。
「私は、閣下の描く『最終戦争』のために、友の息子を戦死者の名簿に加えさせるつもりはない、、、あなたの誤算は、現場の制御を過信していることだ」
あの時、石原を救った男の言葉は、重く、鋭く、参謀本部の静寂を切り裂いた。
頼は、石原に背を向け、部屋を去る。
山崎に渡す二号機の検品は、まだ終わっていない。
石原の理想が崩壊する前に、世界が暗闇に包まれる前に、頼は、自分だけの兵站を完成させるべく、再び真鍮の海へと潜る。
頼は、石原から渡された薄い封筒の中身を、一号機の光の下で広げた。
そこには、参謀本部の統制を嘲笑うかのように、独断で「防共」を掲げて前進しようとする北支の部隊名が、綴られていた。
(やはりか。石原の理想が現場に届く前に、このリストが発火点になる)
頼は深夜の書斎に戻ると、計算尺を叩きつけ、二号機のポンプを再び引き抜いた。
カレンダーを睨む必要すらない。指先に残る真鍮の熱が、残された「猶予」の少なさを、拍動のように伝えていた。
(石原が理想を語っている間に、俺は現場を物理的に遮断させてもらう。……まずは、山崎の赴く上海の兵站からだ)
頼の瞳に、エリート官僚のそれとは別の、より暗く、より確かな「修繕者」の光が宿る。
積み上がる火薬、暴走する現場、そして欧州で上がり始めた火の手。
歴史という名の欠陥だらけのOSに対し、彼は今、正規の軍令を通さない『禁断の修正』を強制的に当てようとしていた。




