対(つい)の素数(プライム)
1936年7月
帝都の夏は、排熱効率の悪い古いOSのように、逃げ場のない熱を孕んで停滞していた。
神田鍛冶町。
煤けた路地裏に佇む、看板もろくにない職人たちの詰所――例の『白光社』に頼は足を運んでいた。
頼が引き戸を引くと、石油(灯油)と油と金属の匂いが混じり合った、重苦しくも確かな空気が鼻腔を突いた。
「またあんたか。あんたも大概、物好きだな」
奥から顔を出した老店主は、相変わらずぶっきらぼうな、節くれ立った指で手ぬぐいを弄んでいた。
「久保田中佐の紹介で買ったあの一号機と同じものを、もう一つ頼みたい」
頼の声に、店主は鼻先で短く笑った。
「二つ目か。いいのかい、あんたはやっぱり物好きだな、値段も同じだ」
「わかっている、だからだ。次は山崎という友人に持たせる。あいつが大陸の闇で、自分を失わないための保険だ」
店主は無言で奥へ引っ込み、やがてカウンターの上に、新聞紙に包まれた「それ」を置いた。
「つい先日、熱田の工場から届いたばかりの出来立て、しかもあんたの持ってる一号機と同じ『職人』が組んだ、正真正銘の兄弟分だ」
頼は包みを解いた。
現れたのは、磨き上げられる前の、どこか野蛮な光を放つ無骨な金属の塊だ。
頼は手を伸ばし、その把手を捻ると例の感触がする。
「ぎりり」
真鍮同士が噛み合う、あの重く、逃げ場のないそれだ。
独逸製にはない、肉厚な金属だけが奏でる沈黙。
「二十五円。相変わらず、不合理な数字だ」
「嫌なら、独逸製を買いな。あっちはもっと軽くて安い」
「いや、この重さだ。この質量こそが、今の山崎には必要だ」
頼は無言で、五円紙幣を五枚、カウンターに置いた。
家族のための一号機、そして今、友のために手に入れた二号機。
一号機が上大崎の自宅を安堵で満たしているように、この二号機には、北京の泥濘を焼き切る役割を負わせる。
深夜、上大崎の自宅。
「頼さん、お帰りなさい、、、。あら」
廊下に出迎えた燈の視線が、頼の腕の中にある「重い矩形」で止まった。
その眼差しは、三月に起きた『二十五円の衝突』を瞬時にリロードしている。
「それは、、、また、あの『社』の資材、ですか?」
「ああ、、、だが、今度は理由が違う」
頼は、一号機の時のような狼狽を、山崎という名の正論で上書き(オーバーライト)した。
「山崎が大陸へ発つことになるだろう。あいつの、、、いや、現場の予感は外れたことがない。あちらの夜は、この帝都の比ではない。あいつの網膜に正しい論理を焼き付け続けるには、これが必要なんだ。餞別だ」
「お餞別、ですか、、、」
燈は、数秒の間、頼の腕の中の真鍮を、そして夫の横顔を走査した。
家計という名の演算回路が、再び「コーヒー二百五十杯分」という数字を弾き出す。
だが、そこに「山崎の命」という巨大な変数が加わったことで、式は成立した。
「そうですか、、、。山崎さんのためでしたら、私から申し上げることはありません。あの方には、生きて戻ってきて頂かなければなりませんものね」
燈は静かに頷き、夫の外套を受け取った。
「ですが頼さん。山崎さんの兵站を整えるのは立派ですが、私の方の『台所兵站』も、今月はなかなかの激戦になりそうですわ。覚悟しておいてくださいね」
「ああ、、、善処する」
海軍中佐・吾妻頼。
友の命を救う『二号機』の導入には成功したが、引き換えに自身の夕食の『お菜』が再びデバッグ(削減)される未来を、彼は静かに受け入れた。
だが、その「代償」を払ってでも手に入れるべき論理が、今、手元にある。
食後、家族が寝静まるのを待ってから、頼は逃げるように書斎へと籠もった。
扉を閉め、鍵をかける、そこから先は、家計の演算も、赤出汁の匂いも届かない、彼だけの兵站基地だ。
そして頼は、友の、山崎の為の二号機を静かに解体し始めた。
新品ゆえの硬さ、摺り合わせのわずかな渋み。
一号機の時も、こうして一晩中、指先にその感触を叩き込んだのだ。
頼の指先が、新品のニップルの感触をなぞる。
一号機が「家族を守る盾」になったように、この二号機を「友を導く矛」へと昇華させる。
そのための孤独な、しかし至福のデバッグが、今夜から始まる。
翌朝の艦政本部。
頼のデスクには、大陸向けの軍需物資の調達計画が積み上がっていた。
「新品の銃、新品の弾薬。だが、それを使う兵たちの精神(OS)が摩耗していれば、ただの鉄屑だ」
二号機の真新しいさ故の、「硬さ」を思い出しながら、書類に却下の判を押した。
午後に横須賀から届いた、山崎の短い絵葉書。
『上海の空気が変わった。そろそろお迎えが来そうだ。お前の言った通り、夜が深くなり始めたよ。 山崎』
職場のデスクでそれを受け取った時、頼の網膜には大陸の暗い影が焼き付いた。
彼はそれを手帳の間に挟み、無言で計算尺を動かし続けた。
帰宅し、夕食時の燈の小言をやり過ごした後、頼は逃げるように書斎へと籠もった。
机の上には、一号機と対になり鈍く光る二号機が待っている。
この純真な金属の塊が、山崎の血と汗にまみれ、本物の「太陽」へと成るその瞬間まで、頼は執拗なまでの検品を続ける。
(待っていろ、山崎。世界で最も正確で、最も不合理な二十五円を、お前にマウントしてやる)




