家族と友と。
1936年3月2日
上大崎の庭で灯された白光は、家族の網膜に確かな安堵を焼き付けた。
だが、その真鍮の熱が冷める間もなく、帝都のOSはさらなる致命的なエラーへと突き進んでいく。
3月9日、廣田弘毅内閣が発足。
軍部大臣現役武官制の復活という、歴史の歯車を逆回転させるバグが、静かに、しかし確実に組み込まれた。
陸軍の暴走を抑制するはずの最後の安全装置が外され、日本という巨大な歯車は、大陸という名の泥濘へ向かって、音もなく滑り始めた。
4月
頼は、艦政本部の資料室で、米国の工作機械の輸入データと、我が国の鉄鋼生産能力の推移を計算尺で追い続けていた。
冷たい電灯の下、弾き出される数値は、どれも破滅的な未来を指し示している。
「精神力では、摂氏千五百度の溶鉱炉は沸かないな」
頼は、陸軍が声高に叫ぶ『皇軍無敵』のプロパガンダを、数字という名の暴力で一つずつ棄却していった。
5月、海軍省
山本五十六は、頼が提出した『対米・対中物量比較報告書』を読み終えると、ふう、と息を深く吐き出した。
「吾妻、お前の予測通り、北支の空気が淀んできた。陸軍の連中、豊台での小競り合いを『奇貨』とするつもりだぞ」
「閣下、兵站の裏付けなき進出は、単なる自壊です。海軍は、その泥濘に引きずり込まれてはならない」
山本は頼を真っ直ぐに見据え、短く頷いた。
「分かっている。だが、現場 は理屈では動かん。横須賀の山崎少佐はどうしている?」
「間もなく、彼に会いに行きます。彼の覚悟が、大陸の闇に耐えうるものか、見極めに行ってきます」
それから一ヶ月、季節が初夏へと書き換えられた1936年、6月
頼は横須賀線の下り列車に揺られていた。
窓の外には三浦半島の青い海が広がり、初夏の陽光が海面を鋭く射抜いている。
横須賀、長浦港。
潮の匂いと重油の香りが混ざり合う埠頭は、慌ただしい熱気に包まれていた。
上海への交代要員として射出を待つ海軍陸戦隊の駐屯地。
そこには、軍服の襟元に白い塩を吹かせ、部下を怒鳴り散らしている一人の男がいた。
「山崎」
頼の声に、泥と汗にまみれた山崎少佐が振り返る。
その瞳には、最前線に立つ者特有の、鋭く、それでいて乾いた光が宿っていた。
「頼か。中佐殿が、こんな埃っぽい場所へ何の用だ」
山崎は、頼が差し出した水筒を受け取ると、その中身を一気に喉を鳴らして飲み干した。
「上海の様子はどうだ。また小競り合いか」
「ああ、あそこはもう破綻してる。いつ全面戦争が起きてもおかしくはない。だがな、頼、、、俺の勘じゃあ、本命はそこじゃあない」
山崎は飲み干した水筒を弾薬箱の上に置き、北の空を見上げた。
頼は、周囲に誰もいないことを確認し、積み上げられた資材の影に山崎を誘った。
「山崎。お前の勘は正しい。上海は囮だ。陸軍の暴走は、北で起きる。お前の部隊、遠からず北支へ飛ばされるぞ」
山崎の表情から笑みが消えた。頼が感情を排して語る時、それは冗談ではなく、確定した未来のログであることを、彼は誰よりも知っている。
「北京か。あそこは夜が長い。そして、暗い、、、」
頼は、自らの書斎の机に鎮座する、あの二十五円の真鍮の重みを思い出していた。
完璧な圧を孕み、網膜を焼くほどの白光を放つあの鉄塊。
あれは家族を守るための盾だ。
「山崎。北京の夜は、人間の判断力を狂わせるほど暗い。視界不良は恐怖を生み、恐怖は指先の引き金を軽くする。それが、歴史を壊すバグの正体だ」
頼の声は、精密機械の公差を読み上げる時のように冷徹だった。
「闇の中でも、己の重心を失うな。その泥まみれの身体を、安売りして決して壊すな」
山崎は、頼の瞳の奥にある静かな殺気、そしてそれ以上の深い憂慮を読み取った。
「重心、か。相変わらず理屈っぽいな、頼。了解した。大陸の闇とやらが、俺の規律をどれだけ揺さぶるか、試してくるとしよう」
山崎は、頼がまだ自分に対して「何か」を伏せていることに気づいていた。
だが、それを問い詰める無作法はしなかった。頼が沈黙を守る時は、それが最も安全な解であることを知っていたからだ。
汽笛が響き、乗船の合図が埠頭に鳴り渡る。
山崎は頼に背を向け、雑踏の中へと消えていった。
帰路、横須賀線の下りホームで、頼は潮風に吹かれながら夕闇に沈みゆく軍港を見つめていた。
(山崎、、、お前が大陸の闇の中で、どれだけ自律し続けられるかだ)
初夏、潮騒の音が、規則正しい論理の鼓動のように、来るべき嵐への序曲を刻んでいた。
頼は独り、静寂を切り裂き、再び帝都の冷徹な演算へと戻っていった。




