三年の蕾
1936年3月2日
岡田啓介内閣は総辞職を余儀なくされた。
現代では二・二六事件と呼ばれる、巨大な暴走は、斎藤実や高橋是清といった国家の重鎮たちを「消去」し、帝都の政治機能を麻痺させていた。
前日の3月1日に反乱部隊の帰順が完了し、街から銃声こそ消えたものの、戒厳司令部が睨みをきかせる帝都の空気は、雪解けの泥のように重く、冷たい。
海軍省では、山本五十六が陸軍の野蛮さへの憤怒を押し殺し、政治的空白を埋めるべく連日の演算を強行していた。
陸軍参謀本部では、石原莞爾が自らの理想を汚した身内の不祥事の後始末に追われ、孤独な絶望の中にいた。
そんな「戒厳令」という名の凍りついたOSに支配された帝都を抜け、頼は一人、上大崎の自宅の庭に立っていた。
書斎の机の上には、前日に神田で手に入れたばかりの、あの二十五円の真鍮、白光社製三號型白光燈が、点検を終えて静かに鎮座している。
国家という巨大な歯車が軋む中、頼は一人、上大崎の自宅の庭に立っていた。
庭の隅には、あの梅雨前、三年前の新築祝いに植えた桜の若木がある。
長男の継が燈のお腹の中にいた頃に植えたその木は、この三年の月日でようやく頼の背丈を超え、固い蕾をその枝に宿していた。
「燈、こっちへ」
頼の声に、外套を羽織った燈が、絢と継を連れて縁側へ出てきた。
「頼さん、こんな外で何をなさるおつもりですか、、、?」
「いいか、燈、演習だよ、この白光燈をいまから使う。絢、継、お前たちも良く聞いて、見ておくんだ。これから帝都は何度も闇に呑まれる。送電網が死んだ時、この家の重心を維持するのは、お前たちの手だ」
頼は「野営」や「露営」などという、軍事的な言葉すら口にしなかった。
ましてや、後世に語られるような「キャンプ」などという、余暇を愉しむ甘い概念はこの時代の日本には存在しない。
当時、夜の屋外に火を灯し、寝食を共にするのは、行き場を失った放浪者の「野宿」か、さもなくば戦場における「泥濘」そのものだった。
だからこそ、頼はそれをあえて「演習」と定義した。
そしてそれは家族に課す、生存のための兵站訓練だった。
頼は燈の隣に膝をつき、真鍮の冷たい感触を共有させた。
「いいか、燈。このマントル(袋)は灰の塊だ。一度焼けば、指先がかすれただけで崩れ去る。それはこの『光』の死を意味するんだ、、、絶対に触れるな」
頼の声は、精密機械の公差を読み上げる時のように冷徹だった。
「燃料は石油(灯油)だ。揮発性の高いガソリンとは違う。だが、だからこそ『熱』という名の論理を介さねば、こいつは牙を剥く」
頼はまず、燃料キャップの頂部にある小さな圧抜き弁、所謂スクリューを緩めた。
「最初は圧を逃がしておく。予熱が先だ」
予熱皿に注がれたアルコールに火を灯すと、青白い炎が桜の若木の幹を幽霊のように照らし出した。
「気化器の管が十分に熱を帯びるまで待て。焦ってバルブを開けば、生出の石油が火柱となって夜を焼き尽くす。それは失敗だ。指先で、真鍮が熱を孕む音を感じろ」
アルコールの炎が消えゆく刹那、頼は素早く圧抜きスクリューを締め込み、燈の細い指をポンプの把手に添えさせた。
「今だ!加圧しろ。一突きごとに、空気という名の論理を真鍮の腹へと叩き込め」
燈は戸惑いながらも、頼の指導に従いポンプを突き、子どもたちもその様子を見守る。
「シュッ、シュッ」と、乾燥した真鍮の摩擦音が夜の静寂を切り裂く。
燈がポンプを突くたび、重厚な抵抗が指先に伝わる。
タンク内の石油が逃げ場を失い、灼熱の管へと押し出される準備が整う。
やがて、頼が「開け」と短く命じ、燈が把手を回した瞬間――。
「ゴオォッ!」
鋭い初動音と共に、凄まじい白光が、深夜の庭を殴り飛ばした。
「わあ!」
絢と継が歓声を上げる。
三年前の桜の枝も、燈の驚きに満ちた瞳も、昼間よりも鮮明な白光の中に浮かび上がった。
その光は、単に夜を照らすだけではなかった。
眩しさに目を細め、言葉を失う家族。
頼は、三號型から響く「シュォォォ……」という力強い燃焼音の中に、一切の迷いがないことを確信していた。
独逸製グレッツの、バイオリンのような繊細さはない。
だが、この真鍮の咆哮は、日本の湿気も、泥濘も、そして自分たちが直面するであろう不条理な闇も、すべて焼き殺すだけの「野蛮な誠実さ」に満ちていた。
「すごい!お昼間みたい」
絢が、白く照らし出された桜の蕾を指差し、弾んだ声を上げる。
継もまた、頼の足元で、初めて見る「小さな太陽」をあたかも魔法でも見るような瞳で見つめていた。
頼は、そんな子供たちの笑顔を横目に、胸の内の計算尺を一度だけ叩いた。
「これなら、いける」
独白は、夜の風に溶けた。
何が、とは言わない。
だが、この光があれば、どんな暗黒の中でも自分は目盛りを読み、家族の重心を維持できる。
その確信だけで十分だった。
「頼さん」
燈が、眩しさを避けるように手をかざしながら、少し困ったような、しかし柔らかな微笑みを浮かべて隣に立った。
「こんなに明るくては、隠し事はできませんね。お菜を工夫する覚悟、私も決まりました」
頼は、苦笑いしながら頷いた。
二十五円の代価。
それは、この三年前の桜の下で笑う家族の顔を、何ものにも奪わせないための、最も安上がりな投資だった。
白光の下、若木の桜が、一足早い春の訪れを告げるように白く輝いていた。
戒厳令の静寂に沈む上大崎の住宅街。
憲兵の巡邏が響く表通りの暗渠に対し、吾妻家の庭だけが、1936年の絶望を拒絶するように白く、熱く、燃え上がっていた。
その光だけは、歴史のバグを寄せ付けなかった。




