光(ひかり)
頼が置いた五枚の五円紙幣を、老店主は数えることもせず、ただ黙って顎で奥を指した。
「油を入れる。いいな」
老店主は一斗缶の蓋を抉り開けると、そこから使い込まれた小振りのブリキ製片手桶へ、琥珀色の石油(灯油)を淀みなく移した。
一斗缶が放つ「ガボッ、ガボッ」という野蛮な呼吸音が止むと、店主はその桶を手に取り、頼の目の前で三號型の給油口へと、糸を引くような正確さで注ぎ始めた。
「石油の匂いか」
ジョウゴの底で渦を巻く石油は、店の薄暗がりの中で、まるで生きた猛獣の体液のように鈍く光っている。
頼は、その液体が真鍮の腹に吸い込まれ、指先に伝わる「質量」が刻一刻と増していく感覚に、妙な高揚感を覚えていた。
次に老店主は、棚から真新しいマントルを一つ取り出すと、節くれ立った指で丁寧に糸を結びバーナーへと取り付けた。
結び、余った糸は素早く糸切り鋏で切り取る。
「いいか、これが命だ。一度焼いたら、二度と触るんじゃねえぞ」
店主が燐寸を擦り、その純白の布に火を近づける。
マントルは一瞬で黒く煤け、やがて縮れながら、脆く、しかし美しい灰白色の球体へと姿を変えた。
「から焼き」が終わり、詰所の空気がわずかに乾燥した熱を帯びる。
続いて店主は、予熱皿へなみなみとアルコールを注ぎ、再びマッチを落とした。
青白い炎が真鍮を舐め上げ、十分に気化器が熱を帯びた頃、店主は頼に顎をしゃくった。
「加圧しろ」
頼はポンプの把手を握り、一突きごとに真鍮の腹へと「力」を込めていく。
指先に伝わる反発。
タンク内の石油が、逃げ場を失い、出口を求めて牙を剥く感覚。
「シュシュッ、シュッ、、、」
鋭い吸気音が最高潮に達した瞬間、店主の合図で頼が把手を捻った。
「――!」
その瞬間、灰色の殻を脱ぎ捨てるように、マントルが白光を爆発させた。
それは「舎」の電球が作る文明の輝きなどではなかった。
マントルが放つ凄まじいまでの白光は、店主の顔の深い皺を、カウンターに散らばった真鍮の削り屑を、そして頼が抱える「未来への不安」さえも、残酷なまでに鮮明に照らし出した。
「いい光だ」
頼は、網膜に焼き付くようなその白光を見つめたまま呟いた。
礼を言い店を出る頃には、帝都は完全な闇に包まれていた。
だが、外套の下に抱えた三號型の重みは、頼の腕を通じて「重心」を据えていた。
もはや路地裏の暗闇も、雪解けの泥濘も、頼の歩みを狂わせることはなかった。
再び海軍省に戻る頃には、廊下のガス灯が頼の外套を、不気味に長く、だが揺るぎない影として床に焼き付けていた。
頼は、手に入れた真鍮の包みを机の足元に隠すように置き、再び数字の海へと飛び込んだ。
頼は、さっき初めて火を入れたばかりのその把手に触れ、ゆっくりと息を吐いた。
執務室は、深夜になってもなお、敗戦処理に追われるかのような官僚たちの疲弊した熱気に満ちていた。
死んだ重臣たちの葬儀の段取り、凍結された予算の再計算、そして山崎たち陸戦隊の撤収スケジュール。
頼は、懐の計算尺を弾き、血の通わない数字としてそれらを一つずつ「処理」していく。
だが、軍靴を脱ぐ暇もないその公務の合間、足元に触れる包みの重みが、冷徹な頼の意識をかすかに「現実」へと繋ぎ止めていた。
窓の外、まだ雪が残る帝都の地平線には、夜を徹して不寝番を続ける兵士たちの焚き火が点々と赤く滲んでいた
狂乱の予熱は終わり、頼の中には、決して消えることのない「光の源」が宿っていた。
すべての急務を終え、頼が海軍省の重い門を出たのは、日付が変わる頃だった。
雪解けの泥が跳ねる道を、目黒へと急ぐ。
上大崎の自宅に辿り着いたとき、玄関の引き戸を開ける頼の指先は、戦場(海軍省)でのそれよりもわずかに躊躇いを含んでいた。
「ただいま」
外套を脱ぎ、式台に置こうとした瞬間、真鍮の塊が「ゴトッ」と、畳を重く鳴らした。
「お帰りなさい、遅くまでのお勤めご苦労様さまでした頼さん、、、あら?その、重そうな包みは?」
廊下の奥から、燈が静かに現れた。
その眼差しは、頼が隠そうとした「奢侈」という名のバグを瞬時に走査する。
「ああ。これはその、、、。いや、今後の演習に必要な資材だ」
頼は、計算尺を扱う時のような正確さを欠いた声で続けた。
「二十五円したが、必要経費だ」
「二十五円、、、」
燈は、一瞬だけ目を見開いた。
彼女の脳内でもまた、頼とは別のベクトルで「計算」が走ったはずだ。
それはコーヒー二百五十杯分、あるいはこの家の食卓を数ヶ月支えるための重厚な兵站だ。
燈は赤出汁の鍋が鳴る台所へ視線を戻し、静かに、しかし逃れようのない一言を添えた。
「コーヒー何百杯分でしょうね。もちろん頼さんが『必要だ』と仰るなら、きっとそうなんでしょう。明日からのお菜、少しだけ工夫が必要ですね」
「すまない」
海軍中佐・吾妻頼。
数万トンの鋼鉄を動かす男が、妻の『家計の演算』に冷や汗をかく、、、。
それが彼の、唯一にして最大のデバッグ不能な弱点だった。
深夜、家族が寝静まった書斎で、頼は「三號型」を机の中央に据えた。
石油の匂いが、外套の袖口から微かに立ち昇る。
神田の路地裏で見た、あの網膜を焼くような白光の残像が、今も瞼の裏に張り付いていた。
頼はマッチを擦る代わりに、重厚な把手にそっと指を触れた。
指先に伝わる「ぎりり」とした真鍮同士の噛み合わせ。
それは、帝国海軍中佐の肩書きを持つ男が一介の「人間」に戻り、自分だけの論理を再構築するための鍵だった。
頼は、その無骨な質量を瞼の裏にその白光をなぞりながら、独白した。
「死なないための厚み、、、か」
窓の外、雪解けの帝都は依然として暗い。
だが、頼の机上には、歴史の不条理を焼き殺すための、野蛮で誠実な「正解」が、点火を待つ静かな獣のように、鈍く、確かにそこに在った。




