暗闇と代価
久保田から手渡されたメモには、神田鍛冶町の片隅を示す簡素な地図が記されていた。
「白光舎なら品川です。あちらは鉄道省御用達の、言わば『官』の光。ですが吾妻さん、貴殿が求めるのは、おそらくこちら、、、熱田の連中が神田に置いている、この『社』の方でしょう」
久保田は、「舎」と「社」の字の違いを強調するように言った。
電球の如き華やかな近代化を教える「舎」ではなく、泥濘の中で立ち止まる者の拠り所となる「社」。
その言葉の響きが、頼の胸に重く沈んだ。
夕刻、海軍省の重苦しい空気を振り切るように、頼は神田へと向かった。
戒厳令下の街は、日没を前にして早くも死に絶えたような静寂に包まれている。
憲兵の鋭い視線が外套に包まれた頼を刺すが、彼はそれを一顧だにせず、雪解けの泥道を急いだ。
地図が指し示す場所は、表通りの華やかさとは無縁の、煤けた路地裏だった。
そこにあったのは「店舗」ではない。
看板もろくに掲げられていない、油と真鍮の匂いが染み付いた、職人たちの「詰所」のような場所だった。
「ごめん」
頼が引き戸を引くと、奥から無愛想な、しかし節くれ立った指を持つ老店主が顔を出した。
「こんな時に、物好きだな。もう店仕舞いだ」
「久保田中佐から、熱田の『三號型』があると聞いた」
頼の声に、老店主の目がわずかに細まった。
彼は無言で奥へ引っ込むと、やがてカウンターの上に、新聞紙に包まれた「それ」を置いた。
「二十五円だ。独逸製ならもっと安く手に入る。あっちは見栄えもいい。だが、うちは真鍮をケチらねえ。この重さが、そのまま『死なないための厚み』だ」
頼は包みを解いた。
現れたのは、工芸品のような独逸製の洗練さとは対極にある、無骨な真鍮の塊だった。
磨き上げられる前のそれは、鈍く、どこか野蛮な光を放っている。
頼は手を伸ばし、その把手を握った。
「重いな、、、いや、この重さでいい」
独白が漏れた。
独逸製のような指先で弾くような軽さはない。
だが、泥まみれの手で掴んでも、あるいは凍えた指先で探っても、決して裏切ることのない確かな手応え。
真鍮同士が噛み合う「ぎりり」とした感触は、そのまま頼の指先に「現実」としての質量を伝えてきた。
タンクを爪の先で弾いてみる。
「キンッ」という高い響きではない。
肉厚な金属だけが奏でる「コンッ」という、重く、密度の高い音が返ってきた。
頼の脳内で、瞬時に計算尺が滑った。
二十五円。
銀座のカッフェーで啜るコーヒーなら、およそ二百五十杯分。
あるいは、上大崎の自宅で燈がやり繰りする食費の何ヶ月分か。
一人の軍人が、ただ「夜を照らす」ためだけに投じるには、あまりに過剰で、あまりに不合理な数字だ。
だが、あの雪の夜。
闇に呑まれ、五感を奪われ、論理が「熱狂」という名のバグに屈したあの絶望。
あの暗黒を殴り倒すための質量が、今、この真鍮の冷たさとして掌にある。
これはもはや、単なる灯器ではない。
歴史のバグを修正するために、頼が自らの血肉を削ってでも手に入れるべき「予備部品」なのだ。
「これを、一つもらおう」
頼は無言で、五円紙幣を五枚、カウンターに置いた。
中佐の月給の1割を超える出費。
だが、頼にとってそれはもはや金銭のやり取りではなかった。
家族を、そして己の論理を守り抜くための「兵站」への、最後の投資だった。




