狂乱の予熱
1936年3月1日
上大崎の自宅の朝は、重く湿った雪解けの音で始まった。
頼は、まだ夜が明けきらぬ薄闇の中で軍服に袖を通した。
隣で眠る燈を起こさぬよう、動作は極めて静かだ。
だが、布団を蹴飛ばして大の字で眠る長男・継の寝顔を見て、頼の指先が止まった。
二歳の彼は、父がこれから向かう帝都の混乱など知る由もなく、ぷっくりとした拳を握りしめて安らかな寝息を立てている。
「光が足りない、、、」
あの混乱の夜の光景が蘇った。
停電し、ラジオすら沈黙した帝都の夜。
それは家族を守る家主としての、呪詛に近い独り言だった。
「お早いのですか、頼さん」
いつの間にか起きていた燈が声をかけた。
「ああ。省内の整理がある」
頼が居間へ向かうと、そこには長女の絢が、眠い目をこすりながら燈の手伝いをして小皿を運んでいた。
ちゃぶ台には、炊きたての飯と、湯気を立てる赤出汁。
頼は無言で箸を取った。
慣れ親しんだ赤出汁の濃い味噌の香りが、戦場のような数日間を過ごした頼の鼻腔を抜け、強張った身体の芯をわずかに解きほぐす。
これが、頼が計算尺を振るって死守した「重心」の味だった。
「頼さん、お気をつけて」
玄関先で、燈が頼の外套の襟を整え、静かに頭を下げた。
「ああ。行ってくる」
頼は短く答え、まだ薄暗い目黒川沿いの坂道を足早に下った。
戒厳令下の帝都は、普段の活気とは無縁の、死んだような静寂に包まれている。
街角には銃剣を構えた兵士が立ち、検問の軍靴が雪解けの泥を跳ね飛ばす。
海軍省へと向かう頼が見る帝都は、至る所に「歴史のバグ」が剥き出しになっていた。
電話線は切断され、焼けた建物の匂いが冷たい空気に混じっている。
到着した海軍省庁舎は、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
不安定な軍専用線にしがみつき、途切れがちな声を張り上げる怒号に近い電話の応対。
そして、麻痺した市内回線の代わりに廊下を激しく往復する伝令たちの軍靴の音。
「吾妻中佐! 艦政本部の予算執行停止、大蔵省との連絡がつきません!」
「中佐、横須賀からの至急報! 昨夜、山崎少佐の本隊は駆逐艦で撤収しましたが、岸壁に残された後留守部隊と重機材の撤収用輸送船の手配に不備があると、鎮守府側が難色を示しています!」
次々と投げかけられる書類と錯綜する情報の山。
頼はそれらを機械的に、しかし冷徹な速度で処理していく。
そして現場で顔を合わせていた山崎の部隊ですら、この「省内」という巨大な演算器を通せば、途端にノイズだらけの不確かな数字に成り下がる。
だが、その頭の片隅には、常に「あの夜の暗黒」がこびりついていた。
情報の錯綜、通信の途絶。
それらすべての原因は、システムが「闇」に耐えられなかったことにある。
だが、あの雪の夜、頼が痛感したのは、知略や数式の敗北ではなく、もっと根源的な「物理」の暴力だった。
送電網という近代国家の脆弱な神経系が断たれた瞬間、帝都は瞬時に明治以前の、いや、中世の闇へと引き戻された。
街灯が消え、頼が信じる「論理」の目盛りを読み取ることすら困難になったあの暗黒。
闇は音を奪い、方向感覚を狂わせ、人の心を「熱狂」という名のバグへと追い込んでいく。
それは頼にとって、兵器のスペックを論じることと同等、あるいはそれ以上に切実な、生存のための兵站上の欠陥を埋める作業だった。
「吾妻さん、少し良いですか」
執務室の喧騒の隙間を縫って声をかけてきたのは、久保田中佐だった。
彼の眼鏡は曇り、軍服の襟元は乱れている。彼もまた、連日の徹夜で限界に近い。
久保田は頼を、資材置き場の隅、、、山積みにされた木箱の陰へと誘った。
そこだけが、唯一、狂ったような省内の喧騒から切り離された「空白」だった。
「吾妻さん、これを見て下さい。やはり加圧式は独逸製、グレッツです。現実逃避だと思われるかもしれませんが、私はこれこそが、次の惨劇を防ぐための鍵だと思っています」
そう言って久保田中佐が分厚い封筒から取り出した資料を広げていた。
見れば、独逸・エーリッヒ&グレッツ社(後のペトロマックス社)の最新のカタログだ。
周囲では、誰が死んだ、誰が裏切ったという血生臭い会話が飛び交っている。
その中で、最新鋭の加圧式ランプの図面を広げる二人の姿は、傍目には狂気に見えるだろう。
だが、頼には久保田の意図が痛いほどわかった。
「これらは設計の公差も、この部品一つひとつの仕上げの美しさも、彼らは一歩先を行っている。この完成度、佇まいは海軍の将校室に置いても、十分に様になりますよ」
久保田は、工学への純粋な敬意を瞳に宿らせていた。
彼は、頼とはまた違うベクトルで「道具の性能」を信奉している。
頼は、久保田が差し出したカタログを冷徹な目で見つめた。
そこに印刷されたランプは、確かに工芸品のような完成度を誇っていた。
燃焼効率、光量、そして洗練されたシルエット。
独逸の合理性が産み落とした、一つの正解には違いない。
「確かに美しい、久保田さん、、、だが、、、」
頼は、カタログの上の輝かしいランプの影に、この数日間の、あの「泥濘」を重ねた。
「独逸の設計思想は、日本の執拗な湿気や、戦場での手荒な扱いをどこまで計算に入れているか。この気化器や把手は、一度泥水を被れば、ただの繊細なゴミに成り下がりはしないか」
「しかし、整備さえ怠らなければこれ以上の光はありませんよ?」
久保田の反論に、頼は首を振った。
「俺たちがこれから向き合うのは、整備すらままならない不条理な闇だ。久保田さん、俺が必要なのは『工芸品』じゃない。どんな悪条件でも、灯るべくして灯り、一度圧をかければ石にかじりついてでも光を維持する、、、そんな『野蛮な信頼性』だ」
頼の言葉は、単なる道具選びを超え、来るべき動乱の時代に対する「武器」としての光源を求めていた。
独逸のバイオリンのような繊細さではなく、暗闇という名の敵を殴り倒すための、重厚な質量を求めて。
頼の視線は、紙の上の優雅なランプを通り越し、まだ見ぬ「理想の鉄塊」を捉えようとしていた。
久保田は、頼の「飢え」のようなものを感じ取ったのか、カタログを閉じる手がわずかに止まった。
「なるほど。ならば吾妻さん。貴方の言う『野蛮』が、もし『誠実』と同義であるとするならば、、、独逸ではなく、熱田に、その答えがあるかもしれません」
久保田の眼鏡の奥で、先ほどまでの「工学への憧憬」とは違う、どこか泥臭い光が宿った。
「その『質量』、確かめに行かれますか?」
頼は答えなかった。
ただ、懐にある血に染まった計算尺が、上着越しに冷たく胸を叩いた。
それが、次のデバッグへ向かえという、永田の、あるいは歴史の鼓動のように聞こえた。




