初期化(イニシャライズ)其の四
2月29日、雪解けの芝浦岸壁。
四日間にわたる睨み合いの末、反乱軍はついに「投降」という名の強制終了を選んだ。
帝都を焼き尽くすはずだった炎は、頼が築いた「海軍の壁」によって延焼を食い止められ、一発の市街戦も起こすことなく鎮圧されたのだ。
「頼、お前の言う通り、俺たちは一発も撃たずに済んだぞ」
撤収作業を進める駆逐艦のタラップで、山崎が煤けた顔で笑った。
彼はこの四日間、一度も引き金に指をかけることなく、ただ「そこに存在する」という圧倒的な質量で、反乱軍の戦意を削ぎ落とし続けた。
「ああ。だが山崎、失われたものはあまりに大きい」
頼は、遠く三宅坂の空を見上げた。
事件は起きた。
重臣たちは死んだ。
歴史の歯車は、凄惨な音を立てて噛み合ってしまった。
しかし、頼と山崎がここで「重心」を支えたことで、海軍と陸軍の全面衝突という、国が滅びるレベルの致命的なバグだけは回避されたのだ。
「次は、またお前の家で酒を飲める時に呼んでくれ。計算尺の講義抜きでな」
山崎は力強く頼の肩を叩き、艦へと戻っていった。
頼は、冬の海を切り裂いて進む駆逐艦の、その安定した航跡(重心)をいつまでも黙って見送っていた。
午後8時
駆逐艦の黒煙が水平線の彼方へ溶けていくのを、頼はいつまでも眺めていた。
潮風が、軍服に染み付いた三宅坂の硝煙と、病院の消毒液の臭いを、ゆっくりと剥ぎ取っていく。
(帰ろう、、、)
頼は、一度だけ深く深呼吸をし、重い軍靴を駅の方へと向けた。
芝浦から目黒、そして上大崎へ。
戒厳令下の重苦しい空気が漂う帝都にあって、目黒川沿いの道だけは、皮肉なほどに穏やかな夜の気配を湛えていた。
坂を上り、我が家の門柱が見えたとき、頼は立ち止まって自分の両手を見つめた。
この手は、今日、数式のレバーを引いて歴史をハックした。
この手は、血にまみれた計算尺を握り、怪物の喉元を突き上げた。
だが、この門を潜れば、自分は「中佐」でも「計算屋」でもなくなる。
頼は、冷たくなった両手を強く擦り合わせ、残った「戦場の熱」を無理やり追い出した。
懐の計算尺が、上着越しに胸を叩く。
鈴木侍従長が「いい家だ」と言ってくれた、あの日の陽光が、暗い夜道に道標のように灯っている気がした。
頼は、震える呼気を整え、最も穏やかな、いつもの「父親」の顔を、その疲弊した表情の裏側から引き出した。
家族には、この雪の赤さは見せない。
それが、この家を建てた時に、自分自身と交わした「その約束」の、本当の正解なのだから、、、。
頼は、静かに、しかし確かな力で玄関の引き戸を開けた。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、そこには四日前と変わらない、線香と畳の匂いが漂っていた。
頼は、軍服に染み付いた冷たい雪の匂いを、精一杯払い落とした。
「頼さん!」
燈が廊下を駆けてきた。その目は赤く腫れていたが、無事な頼の姿を見ると、安堵でその場に膝をついた。
「お怪我は、、、ありませんか?」
「ああ。少し、疲れただけだ」
頼は燈の肩に手を置き、居間へと入った。
そこでは、四歳半の絢が、二歳半の継を寝かしつけていた。
頼は、畳の上に大の字になって眠る継の横に座った。
無防備に放り出された小さな手。
その温かさを確認するように、頼はそっと握りしめた。
「重くなったな、継」
かつて、友鶴の改修を終えた後に呟いた言葉が、今、より深い意味を持って胸に去来した。
自分が守りたかったのは、高潔な理想でも、巨大な軍艦でもない。
この小さな手が、明日も無邪気に握りしめられる、当たり前で、かつ奇跡のような「日常(重心)」だったのだ。
頼は、計算尺を取り出した。
永田鉄山の血を吸い、石原莞爾の敗北を見届けた、あの黒ずんだ道具。
それを、頼は継の枕元から遠ざけ、書斎の奥深く、暗い引き出しへと収めた。
「デバッグは、まだ終わらない」
窓の外では、雪解けの水が雨樋を伝い、規則正しいリズムで夜の静寂を叩いていた。
帝都は「再起動」された。
だが、その先に待ち受けるのは、より巨大な、世界という名の不合理との戦いであることを、頼は静かに、しかし確信を持って予感していた。




