初期化(イニシャライズ)其の三
廊下に出た瞬間、石原の放つ狂気のような熱気から解放され、代わりに肺の奥まで凍りつかせるような、帝都の冷気が頼を襲った。
「吾妻中佐!」
駆け寄ってきたのは、海軍省から派遣された連絡将校だった。その顔は、雪よりも白く強張っている。
「侍従長官邸の、詳細が入りました! 鈴木侍従長は、反乱軍の安藤大尉らによって至近距離から数発の銃弾を浴び、現在、生死の境を彷徨っておられます。官邸は、血の海だったと、、、」
頼の視界が、一瞬だけ歪んだ。
懐の計算尺を握る指先が、自分の意志に反して小さく震え始める。
(鈴木侍従長が、、、)
脳裏に浮かぶのは、上大崎の新築祝いで、
「家族を守るという『覚悟』が、この壁の厚みに滲み出ているようだね」
と、穏やかに目を細めていた大先輩の姿だった。
頼が守りたかった「数字の秩序」の中に、鈴木貫太郎の命も、当然含まれていたはずだった。
「侍従長は、、、鈴木侍従長は今はどこにいらっしゃるんだ、、、?」
頼の声は、自分でも驚くほど低く、地這うような響きを帯びていた。
「飯田町の日医大病院ですが、周辺はまだ反乱軍の影響下に、、、」
「構わん。案内しろ」
頼は、廊下を叩く軍靴の音を荒々しく響かせ、参謀本部を飛び出した。
歴史という名の巨大なバグが、恩人の命までをも食い破ろうとしている。
計算尺では測りきれない、どす黒い怒りが、頼の胸の内で「意志」という名の燃料となって燃え上がり始めていた。
飯田町、日医大病院。
雪が降り頻る中、病院の周囲は、不気味なほどの静寂と、剥き出しの銃剣を構えた海軍陸戦隊の鋭い視線に包まれていた。
頼は、泥と雪にまみれた軍靴で廊下を駆け抜け、手術室の重い扉の前に辿り着いた。
そこには、血の匂いと、消毒液の冷たい臭い、そして、一人の偉大な男を失うことへの「恐怖」が沈殿していた。
「吾妻中佐ですか」
手術室から出てきた塩田博士の白衣は、目を覆いたくなるほど赤く染まっていた。
フランスの野戦病院で最先端の技術を学び、日本に輸血療法をもたらしたパイオニア――その名医の白衣がこれほど血に塗れていることが、手術の凄絶さを物語っていた。
頼は言葉を失い、ただ、博士の瞳の奥にある「解」を求めて、計算尺を握る手に力を込めた。
博士は頼の視線を受け止めると、マスクを外し、静かに首を振った。
絶望ではなく、人知を超えた現象を目の当たりにした者の顔だった。
「奇跡、としか言いようがありません。心臓の数ミリ横を、弾丸が掠めていたのです」
博士の口から漏れたのは、非科学的とも言える言葉だった。
「しかし、指揮官の安藤大尉がとどめのために軍刀を抜いた時、さらなる奇跡が起きました。たか夫人の毅然とした訴えが安藤大尉に届き、刀を収め、敬礼をして去っていきました。あの引き際があったからこそ、侍従長は一命を取り留められたのです」
その瞬間、頼の膝から、すべての力が抜け落ちた。
壁に背を預け、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
肺の奥に溜まっていた、この四日間の「毒」のような緊張が、熱い吐息となって吐き出された。
(生きて、、、生きていて、くださったのか、、、)
視界の端で、握りしめた計算尺が、病院の微光を浴びて鈍く光っている。
数字では測れない、理屈では説明のつかない「運命」という名の変数が、この地獄のような雪の朝に、唯一の正解を残してくれた。
頼は、震える手で顔を覆った。
永田を失い、歴史の暴走を止められなかった自分への、これは赦し(救済)ではない。
しかし、あの上大崎の家で、
「偉いねえ、絢ちゃん」
と笑ってくれた、あの温かな「日常の象徴」だけは、まだこの世界に繋ぎ止められている。
「ありがとうございます、、、」
誰に向けるでもない感謝の言葉が、頼の唇から零れた。
頼はゆっくりと立ち上がり、乱れた軍帽を直した。
鈴木侍従長が繋ぎ止めたその命は、そのまま、頼がこれから戦い抜くべき「理由」へと化けた。
外では、依然として雪が降り続いていた。
だが、頼の胸の内の嵐は、静かに、しかし強固な決意を伴って、次なる「重心」へと収束し始めていた。




