初期化(イニシャライズ)其のニ
午前8時、芝浦。
潮騒と、雪を跳ね飛ばすような軍靴の音。
静止した帝都の沈黙を破り、鉄の規律が岸壁を埋め尽くしていた。
「吾妻中佐! お待ちしておりました!」
山崎が、頼の前で完璧な敬礼を捧げた。
背後には精鋭たる、ベ式自動短銃を装備し整然と隊列を組む海軍特別陸戦隊。
「山崎、早いな」
「頼、お前の『予言』通りだ。上層部はまだ寝惚けていたが、俺の独断で第一種武装を整えさせた。どうする、頼。俺の部隊の『射界』は、どこに向ければいい?」
頼は、懐から一枚の地図を取り出した。
「山崎、お前の部隊の役割は『戦闘』ではない。この一帯の『隔離』だ」
頼は計算尺を取り出し、地図上の数点を指し示した。
「反乱軍の補給路、および通信線をすべて断つ。奴らは『熱狂』という名の燃料だけで動いている。燃料を断てば、数日で沈没する。一発も撃つな。だが、一歩も通すな。海軍がここに『壁』として存在すること。それが、あの中途半端な陸軍上層部への最大のデバッグになる」
「了解した。だが頼、彼(石原)はどうする? あの男、今ごろ参謀本部で狂いそうな面をしているはずだぞ」
「彼には、俺が直接『数字』を届けに行く。山崎、お前の部隊の背後は、この俺が保証する」
山崎は不敵に笑い、再び直立不動の姿勢に戻った。
「吾妻中佐! 海軍陸戦隊、ただいまより帝都の『重心』を確保いたします!」
午前10時、三宅坂・参謀本部。
反乱軍に包囲されたその建物の中で、石原莞爾は荒れ狂っていた。
「討伐か、説得か」という空虚な議論が空転している。
そこへ、雪の匂いを纏った一人の海軍中佐が、平然と姿を現した。
「石原大佐。随分と、重心の悪い部屋ですね」
石原は、頼の顔を見るなり机を叩いて立ち上がった。
「吾妻! 貴様、この状況で海軍が芝浦に陸戦隊を上げたのは何の真似だ! 挑発か!」
頼は無言で、石原の机の上に、血の染みが残るあの「計算尺」を置いた。
「挑発ではありません。デバッグです、石原大佐」
頼は冷徹な声で、石原のプライドを抉るように告げた。
「あなたが信じた『意志』の結果が、この雪の惨劇です。陸軍は、その引き金すら制御できないことを証明した。今、山崎少佐の部隊が帝都のライフラインを完全に掌握しました。海軍の許可なく、反乱軍は一歩も動けず、一食も食えず、一発の電信も打てません。あなたは、自分が育てたこの陸軍という巨大なバグを、自力で消去できますか? できないのなら、海軍のやり方で、この国を一度『初期化』させていただきますが」
石原の顔から、余裕の笑みが消えた。
「石原大佐。あそこに並ぶ陸戦隊の指先には、三八式のような情傷は宿っていません。備わっているのは、一分間に五百発の鉄弾を叩き出し、眼前のノイズを物理的に消去する論理だけだ。あなたが『情熱』と呼ぶその不確定なエネルギーを、私は数秒の掃射でゼロにできる」
石原は頼が置いた血塗られた計算尺を、汚物を見るような、あるいは聖遺物を拝むような複雑な目で見つめた。
石原は自嘲気味に笑い、軍帽を深く被り直した。
そしてその指先が、机の上に置かれた計算尺の、黄ばんだセルロイドと竹の継ぎ目を、一瞬だけ慈しむようになぞったのを頼は見逃さなかった。
永田鉄山が手に取り、その最期の血を吸わせた、この世に二つとない「共犯の証」
石原は、頼の冷徹な数字の奥底に、今も消えない永田の「熱」が宿っていることを、その指先の感触だけで悟ったのかもしれない。
「吾妻、、、お前の数字は確かに『退屈』だが、この汚れた雪を片付けるには、ちょうどいい箒にはなったようだな」
「箒、ですか」
頼は感情もなく答えた。
「ええ。ただし、この箒は血を吸いすぎている。扱いには、細心の注意が必要です」
「ハッ、違いない」
石原は外套を翻し、部屋を後にした。
その足音は、自らが招いたバグに追い詰められた敗北者の、しかしどこまでも傲岸なリズムを刻んでいた。
石原の足音が遠ざかり、執務室には再び雪の日の静寂が戻った。
頼は主を失った机の上から、計算尺を静かに手に取る。
指先に残る竹の感触は、驚くほど冷えていた。
頼は窓の外、雪に煙る帝都の街並みを見下ろした。
視線の先、芝浦の岸壁には、今も山崎率いる「鉄の壁」が音もなく展開しているはずだ。
『山崎、お前の部隊の射界はこの計算尺が保証する。撃たせるなよ』
出発前、そう告げた自分に対し、親友は不敵に笑って応えた。
『わかっている、頼。一発も撃たせずに終わらせるのが、俺たちの仕事だ』
二人の間で交わされたその「演算結果」に、もはや誤差の入り込む余地はない。
頼は計算尺を丁寧にケースに収め、軍帽の鍔を指先で整えた。
雪は降り続き、帝都の歴史は、頼の弾き出す「冷徹な解」に向かって、静かに滑り始めた。




