初期化(イニシャライズ)其の一
1936年2月26日未明
帝都は、音を奪うほどの深い雪に包まれていた。
上大崎の自宅。
頼は、隣で眠る燈の規則正しい寝息を聞きながら、静かに、しかし決然と布団を抜け出した。
「頼さん、、、?」
闇の中で燈の声がした。
彼女の勘は、時に頼の計算尺よりも鋭い。
「艦政本部まで呼び出された。雪のせいで通信網が不安定なようだ」
嘘ではない。
だが、真実でもない。
頼が軍服のホックに手をかけたとき、背後から燈の柔らかな、しかし逃れようのない手が伸びてきた。
彼女は何も言わず、少し歪んでいた頼の襟を左右からぴしりと整えた。
「頼さん、、、」
燈の指先が、一瞬だけ頼の喉元で震えたのを、彼は見逃さなかった。
「今夜も必ず、冷えるでしょうから、、、。温かいものを、用意して待っていますね」
彼女の問いは、常に言葉の裏側にある。
それは「行かないで」という懇願ではなく、「必ず帰ってこい」という静かな命令だった。
頼は玄関へ向かう足を引き止め、子どもたちの寝顔を一度だけ見た。
二歳の継は、布団を蹴飛ばし、大の字になって眠っていた。その小さな胸の上下は驚くほど力強く、規則正しい。
父がこれから歴史の「重心」を支えに行くことなど知らず、夢の中で何かを掴もうとするように、ぷっくりとした拳を握りしめている。
頼はその小さな拳に触れたい衝動を抑え、代わりにポケットの「あの計算尺」を指先でなぞった。
永田鉄山の血、そしてあの日の蝉時雨。
この子の眠る平穏な時間を、あのような不条理な暴力で上書きさせてはならない。
継が握っている無邪気な拳を、将来、銃握に変えさせないための「計算」が、今、頼の中で完成した。
すべてはこの雪の朝に繋がっていた。
午前6時、芝浦岸壁。
「本当に降ってきやがったな、、、」
横須賀から急派されてきた駆逐艦の甲板で、山崎は降り始めた雪を見上げ、頼から届いたあの指示書を思い返していた。
「あいつの言う通りだ。忘れ物(武器と弾薬)は、過剰なほど積み込んにある」
山崎は煙草を揉み消し、防寒外套の襟を立てた。
その直感に応えるように、遠く三宅坂の方向から、空気を切り裂くような乾いた銃声が響いてきた。
山崎は不敵に笑い、背後に控える陸戦隊員たちに、腹の底から響く声で命じた。
「総員、上陸準備! これより我々は、吾妻中佐の引いた『射界』を確保する!」
同刻、海軍省。
廊下には怒号が飛び交っていた。
「陸軍の青年将校が蜂起! 斎藤内大臣、渡辺教育総監が襲撃された!」
「首相官邸も占拠!」
頼は、その喧騒を割って電信室へ向かった。
そこには、頼が事前に「配置」しておいた男からの暗号電が届いていた。
『雪、止まず。山、動く。芝浦にて待つ』
頼の口元が、わずかに吊り上がった。
彼は電信を握りつぶすと、待たせていた車へ飛び乗った。
「芝浦へ。可能な限り、三宅坂を避けてな」
車が海軍省の門を出ると、帝都は死んだような静寂に支配されていた。
湿った雪がすべての音を吸い込み、視界に入るのは、街角に立つ兵士の銃剣が街灯を鈍く反射する光だけだ。
普段なら朝の活気に溢れるはずの銀座の裏手も、今は人っ子一人いない。
頼は窓の外を流れる「空虚」を、冷徹な観察眼で走査した。
反乱部隊による電話線の切断、そしてこの雪。
物理的な通信網が絶たれたことで、帝都という巨大なシステムが、処理不能に陥っている。
頼は懐の計算尺を指先でなぞった。
システムが停止しているなら、外部から「強制終了」をかけるしかない。
車輪が雪を噛む鈍い音だけを響かせ、黒塗りの車は、戒厳令下の重圧を切り裂くようにして、潮の香りが混じり始めた芝浦へとひた走った。




