真理(ロゴス)と情念(パトス)
1935年(昭和10年)秋
帝都の空気は、永田鉄山の死を境に、湿り気を帯びた不穏な熱から、乾燥した刺すような冷気へと変わっていた。
九月には、三陸沖で演習中の艦隊が巨大な荒波に切り裂かれた。
後に「第四艦隊事件」として歴史に刻まれる、海軍最大の悲劇である
最新鋭駆逐艦の艦首がもげ、空母の格納庫が圧壊したという報は、艦政本部に身を置く頼にとって、前年の友鶴事件以上の、底知れぬ敗北として突き刺さっている。
海を、そして組織を過信した報い。
その傷を抱えたまま、頼は三宅坂へと足を向けた。
三宅坂、陸軍省。
永田を失った軍務局は、主を失った羅針盤のように迷走していた。
局長室に漂うのは、通奏低音のような主の不在感のみである。
頼は、もはや機能不全に陥りつつあるこの部屋へ、艦政本部で進めていた新型機エンジンの規格統一案を届けに来た。
それは同時に、永田と交わした最後の約束、「海軍側から見た大陸兵站予測」を提出するための訪問でもあった。
だが、頼が扉を開けるより先に、室内の主気取りの男が、その「予測」の中間報告書を、退屈そうにパラパラとめくっていた。
参謀本部員、石原莞爾大佐。
「永田さんは、貴殿を『真理の側に立つ男』と言っていた」
石原の目は書類に落ちたまま、声だけが頼に向けられる。
「身に余る光栄です」
頼は感情を排して答える。石原は書類を放り出すと、今度は頼の顔をじろりと眺めた。
「だが、真理というものは往々にして、熱狂という名の泥濘に飲み込まれるものだ。吾妻中佐。貴殿の数式は、大陸の砂塵の中でどれほど保つかな?」
「保たせるのが、私の仕事ではありません。数字はただ、そこにあるだけです」
頼の視線は、石原の手元にある「一本の計算尺」に落ちた。
あの日、永田の血を吸ったそれを、頼は確かに懐に隠し、三宅坂を去ろうとした。
だが、その後の憲兵による執拗な身体検査は、海軍中佐という盾さえも容赦なく引き剥がした。
事情聴取の際、「証拠品」として強引に奪い去られたはずのそれが、なぜ今、この男の手元にあるのか。
頼の微かな困惑を読み取ったのか、石原は不敵な笑みを浮かべ、計算尺を指先で弄んだ。
「憲兵の連中は、これを局長を呪う『不吉な証拠』として、焼却処分するつもりだったらしい。救いようのない無能どもだ。私はね、これを未来の兵站を測るための『国家遺産』だと言って、無理やり憲兵の奥から引きずり出しておいたよ」
石原はそれを察し、一瞬だけ、計算尺の目盛りにこびりついた、あの黒い漆のような染みを、愛おしむように親指の腹で強く圧した。
その指先が、微かに白く染まるほどの力で。
そして何事もなかったかのように、計算尺を机の上に滑らせて返した。
その机を叩く、竹とセルロイドが重なり合う、どこか空虚で硬い音が、局長室の静寂に波紋を広げた。
石原の瞳から、わずかに宿っていた湿り気が一瞬で蒸発し、再び底の見えない不敵な光が頼を射抜く。
「永田さんは、これを道標にするつもりだったらしいね。だが私はね、数字よりも『意志』を信じる。この国が持つ巨大なエネルギーを、私は世界最終戦という一点に収束させるつもりだ」
石原の言葉には、永田が持っていた「現実への苦悩」はなく、むしろある種の、狂気に近い「確信」が宿っている。頼はそれを聞き、静かに、そして重く汚れた計算尺をポケットに収めた。
「意志、ですか。残念ながら、私の計算尺には『意志』を測る目盛りはありません。ですが、石原大佐。意志という燃料を燃やし尽くした後に、何が残るかは算出できます」
石原は一瞬だけ、笑みを消して頼を凝視する。
その瞳の奥には、計算尺の怪物に対する、侮蔑と、それを上回る底知れぬ好奇心が火花を散らしていた。
頼はそれ以上語らず、一礼して踵を返した。
「また会うことになるだろう、吾妻中佐」
背中に投げられた石原の声。
頼は振り返らず、重い扉を閉めた。
廊下に出ると、狂ったような蝉時雨はとうに止み、代わりに乾いた秋風が軍服の襟元を叩いた。
それからの一ヶ月余り、頼に石原の言葉を反芻する余裕はなかった。
第四艦隊事件の査問委員会と、全艦艇の強度再計算。
地獄のような徹夜続きの執務を終え、ようやく人間らしい息を吐くことができたのは、暦が十一月に変わってからのことだった。




