崩壊
1935年(昭和10年)5月
三宅坂、陸軍省。
合同技術検討会の数日後、永田鉄山は執務室に、もう一人の「陸軍の異端児」を呼び出していた。
「石原、海軍にも話のわかる、面白い変わり者がいたぞ」
永田は眼鏡の奥の目を細め、書類から顔を上げずに言った。その脳裏には、黒板を計算式で埋め尽くした、あの海軍中佐の姿が焼き付いている。
不敵な笑みを浮かべたその男は、ソファーに深く腰掛けていた石原莞爾だった。
「海軍の噂の吾妻少佐。いや、昨今中佐になった、あの『計算尺の怪物』でしょう。私の『最終戦争論』にすら、数字でデバッグをかけてきそうな男だ。永田さん、あのような男を海軍に遊ばせておくのは、帝國の損失かもしれませんな」
「ふむ。だが、あの男の重心は、陸でも海でもないところにある。あれは、真理の側に立っている男だ」
永田の言葉に、石原は一瞬だけ沈黙し、短く笑った。
「面白い。一度、私の数字も見てほしいものです」
1935年(昭和10年)8月12日
「天誅ッ!」
三宅坂、陸軍省。
蝉時雨を切り裂くような絶叫と、狂気を孕んだ軍靴の音が廊下に響き渡った。
つい数十秒前まで、頼はその部屋の中にいた。
「お盆明け、落ち着かれましたら上大崎の我が家へ。子どもたちも、局長をお待ちしております」
頼の誘いに、永田は眼鏡を拭いながら
「ああ、楽しみだ。その時ばかりは計算尺を置いて、茶でも飲もう」
と、多忙な軍政家の顔を緩めていたのだ。
頼は永田から「海軍側の視点」を求められた重要資料の束を抱え、満足感と共に一礼して退室していた。
廊下は一瞬にして修羅場と化した。
倒れ伏した永田の周囲を、顔を真っ青にした署員たちが取り囲んでいる。
「医官だ! 急げ!」
「局長! 永田局長ッ!」
怒号と悲鳴が入り乱れる中、頼の視界の隅で、一本の計算尺が床を滑り、壁際で止まった。
頼が永田に貸した、あの計算尺だ。
漆塗りのような黒い血が、目盛りを無情に塗り潰していく。
軍医が駆けつけ、永田の軍服を切り裂いて止血を試みる。
だが、軍刀によって深く刻まれた傷口から噴き出す鮮血は、「合理の限界」を疾うに超えていた。
頼は、その凄惨な救命作業の輪に入ることもできず、ただ、自らの知性の象徴が血に沈んでいくのを、石のように立ち尽くして見つめるしかなかった。
1935年8月12日。
永田鉄山の命と共に、この国の「重心」が完全にへし折れた瞬間だった。
頼は、軍憲が入り乱れる喧騒の中、誰にも気づかれぬよう、床に転がっていた「血に染まった計算尺」を拾い上げた。
指先に伝わるのは、もはや体温ではなく、鉄の匂いと、拭い去れない歴史の泥濘の感触だった。
唯一の、最大の理解者になるべき男を失い、陸軍という名の巨大な欠陥船は、もはや誰にも止められない角度で傾き始めている。
頼は血を拭うこともせず、計算尺を深くポケットに沈めた。
現場にいた海軍中佐として、頼は当然のように憲兵隊の足止めを食らった。
殺風景な取調室で、事務的に繰り返される問い。
「局長と、最後に何を話した」
「永田さんとの私的な約束です」
頼はポケットの中の血塗られた計算尺に指を触れながら、淡々と答えた。
永田が死の直前に見せた、あの穏やかな微笑み。
それを、この血の匂いに麻痺した男たちに共有するつもりは毛頭ない。
数時間に及ぶ「事情聴取」という名の空虚な儀式を終え、ようやく三宅坂の門をくぐった時、頼を包み込んだのは狂ったような蝉時雨だった。
だが、頼にはその音はもはや虫の鳴き声には聞こえなかった。
それは、この国の破滅を寿ぐ、おどろおどろしいオペラのプロローグか。
あるいは、逃げ場のない悲劇の幕開けを告げる、歪んだオーケストラの調べのように、頼の鼓膜を容赦なく叩いた。
頼は、五感の重心が狂っていくのを感じながら、たった一人で狂気に染まる三宅坂を後にした。
次の計算は、もはや紙の上では終わらない。
「頼さん、、、?」
玄関で燈が息を呑む。
頼の軍服は煤けており、何よりその瞳に宿る光が、昼間とは別人のように冷たく凍りついていた。
「すまない。今日は、もう寝るよ」
頼はそれだけ言うと、絢と継の頭を撫でることもできず、逃げるように風呂場へ向かった。
湯船に浸かり、何度も体を洗った。
だが、どれだけ石鹸を泡立てても、指先に残る「鉄の匂い」が消えることはなかった。
浴槽の縁に置いた、あの計算尺。
血は拭い去ったはずなのに、目盛りの奥に漆塗りのような黒い色が染み付いているように見えてならない。
その晩、頼は一睡もできなかった。
闇の中で、昼間の蝉時雨が、救急車のサイレンが、そして相沢のあの
「天誅!」
という絶叫が、幾度も幾度も、逃げ場のないオペラのようにリフレインし続けていた。
1935年8月12日、月曜日。
頼にとっての何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。




