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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第6章 1933-

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一瞬の邂逅

1935年(昭和10年)4月


桜の盛りを過ぎた帝都。


艦政本部で空母の復原性不足をデバッグし、軍務局で陸軍との予算折衝に追われる日々。


頼は、挨拶回りのためなどではなく、航空機の資材配分という、数字でしか解決できない『戦い』のために三宅坂に降り立った。


頼の目の前にはあるのは、巨大な石造りの建物、陸軍省の玄関である。


『陸海軍合同技術検討会』


看板に掲げられた文字は立派だが、会場を包む空気は冷え切っていた。


壇上に座る陸軍の将校たちは、海軍からやってきた「造船の専門家」たちを、余興でも見るような冷ややかな目で眺めている。


彼らにとって、いくさとは大和魂と銃剣の数であり、複利計算や復原性曲線などというものは、後方の事務屋が弄ぶ「数字遊び」に過ぎなかった。


頼は、最前列の隅に席を占めた。


その隣には、海軍次官・山本五十六が送り込んだ、頼を支援するための若手将校たちが控えている。


「吾妻中佐。陸軍の連中、端から聞く耳を持っていないようですね」


同行した久保田中佐が、低く、苦々しげに囁く。


頼は答えなかった。


ただ、使い古された計算尺を机に置き、壇上の顔ぶれを一人ずつ、その「知性の密度」を測るように見つめた。


その時、会場の喧騒が、一瞬で凪いだ。


正面の扉から、一人の男が入室してきた。


眼鏡の奥の眼光は鋭く、全身から「冷徹な合理」という名の、圧力と異彩を放っている。


陸軍軍務局長、永田鉄山中将。


永田は一瞥も頼にくれることなく、壇上の中心に座った。


だが、その手元には、かつて頼が海大で書き上げた「全艦艇の重心改修データ」の写しが、無造作に、しかし確実に置かれていた。


「始めなさい」


永田の乾いた声が、検討会の開始を告げた。


陸軍側の兵站担当官が、地図を広げて能弁に語り始める。


大陸における補給路、弾薬の集積計画、そして「精神力による行軍速度の向上」。


その数字の並びは、海軍の造船学から見れば、重心の狂った欠陥船の設計図と同じだった。


頼は無言で計算尺をスライドさせた。


目盛りが刻む現実は、陸軍の「熱狂」を容赦なく否定していく。


(このままでは、大陸の泥沼で国が沈む)


頼は、挙手をした。


周囲の海軍将校たちが息を呑む中、36歳の中佐は、静かに、しかし断罪の響きを持って言い放った。


失当しっとうです。その計算では、一個師団が三日で餓死します」


会場の空気が、凍りついた。


頼は計算尺を手に立ち上がり、壇上の黒板へと歩み寄った。


数字ロゴスに従え。これより、陸軍の兵站計画を書き換え(デバッグ)する」


頼が書き始めたのは、熱量カロリー、輸送船の喫水、摩擦係数へと分解された数式の羅列だった。


カッ、カッ、カッ、、、。


チョークの音だけが響く中、陸軍の「熱狂」が、回避不能な死の解へと書き換えられていく。


「数字に心血は宿りません。宿るのは、誤差バグだけです」


頼は最後の一線を書き終え、チョークを置いた。


会場を支配したのは、墓場のような静寂。


それを破ったのは永田だった。


彼は黒板の数式を、慈しむような眼光で見つめている。


「吾妻中佐。その計算尺、一度借りてもよろしいかな」


頼は、初めて永田と視線を合わせた。敵意はない。


孤独な同族への敬意があった。


「御随意に」


永田は計算尺を受け取り、指先でその目盛りをなぞった。


海軍そっちには、過ぎた男だな」


永田の口元にわずかな笑みが浮かぶ。


陸軍の将校たちが、足元が崩れ去った事実を突きつけられ、ふらつきながら退室していく。


永田は受け取った計算尺の感触を確かめるように、自分の掌を見つめていた。


「吾妻中佐。君は、この数字の先に、何を見ている」


永田の問いは、低く、重い。


「平和か。それとも、より効率的な『死』か」


頼は三宅坂の冷たい空気を吸い込み、迷いなく答えた。


「重心です」


「重心?」


「艦も、組織も、この国も。正しく浮き続けられるための、ただ一点の正解です。それ以外に、私が弾き出すべき数字はありません」


永田は一瞬、虚を突かれたように目を見開き、そして、この日一番の、深い笑みを浮かべた。


「なるほど、重心か。陸軍うちの連中にも聞かせてやりたいものだな」


永田は立ち上がり、頼の肩を軽く叩いた。


「だが、覚えておきたまえ。数字は嘘をつかないが、人間は、自分に都合の良い数字しか見ようとしない生き物だ。君の弾き出す数字が、いつかその『人間の業』に叩き折られないことを祈っているよ」


永田はそれだけ言い残すと、軍靴の音を響かせながら、一度も振り返ることなく会場を去った。


誰もいなくなった検討会会場。


頼は、永田の手の温もりが微かに残る肩を動かすこともなく、しばらくの間、黒板に並んだ自分の数字を見つめていた。


折れるか、それとも、折れる前にこの国の傾きを直すか。


そして頼は、静かに三宅坂の門をくぐった。


1935年の春。


風はまだ冷たいが、頼の心は次の戦場を求めて熱を帯びているようだった。

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