反乱
海軍省の本館。
重厚な大理石の廊下に、頼の軍靴の音と、それに続く十数名の甲種学生たちの、一糸乱れぬ足音が響き渡っていた。
その異様な光景に、行き交う省内の士官たちが足を止め、驚愕の面持ちで彼らを見送る。
「海大の学生が、集団で大臣官房へ、、、? 何が起きているんだ」
頼の胸元には、海大校長・末次信正の公印が押された厚い報告書。
そして学生たちの胸元には、昨夜一晩かけて自ら計算し尽くした、各艦艇の復元性データが収められていた。
「教官。扉が見えました」
結城が、緊張で強張った声を絞り出す。
突き当たりにあるのは、海軍省の最高意思決定機関、大臣官房、そして艦政本部の巨頭たちが集う特別会議室だ。
「案ずるな。諸君が手にした数字は、いかなる階級章よりも重い」
頼は短く告げると、迷いなくその重厚な扉を押し開いた。
室内には、海軍次官を筆頭に、艦政本部から詰めかけた技術将校や、大艦巨砲主義の権化のような将官たちが、険しい表情で居並んでいた。
頼が学生を引き連れて現れ、報告書を中央へ叩きつけた瞬間、室内の空気は「驚愕」を通り越し、剥き出しの「敵意」へと変貌した。
「吾妻!貴様、自分が何をしているか分かっているのか」
艦政本部の老将官が、震える声で頼を睨みつけた。
「一教官が学生を扇動し、殴り込む。これは立派な『反乱』だぞ。貴様の首一つで済むと思うな。ここは学生が足を踏み入れて良い場所ではない!」
「反乱、ですか」
頼は瞳を冷たく光らせ、一歩も引かずに言い放った。
「ならば、その『反乱者』が導き出した計算が、もし正しかった場合、貴方方は、国家を代表して海に謝罪されるおつもりですか? 友鶴で散った百名の魂に」
「黙れッ!!」
別の将官が机を叩いた。
「設計の不備など、外部の者が口を出す領域ではない! 藤本大佐の設計は海軍の誇りだ。それを否定することは、帝國海軍のこれまでの歩みを全否定することと同義だぞ!」
「『誇り』で重心が下がるのなら、苦労はしません」
頼の声が、怒号を切り裂くように響いた。
「見てください、この数式を。条約制限下で、小さな船体に不釣り合いな重武装を積んだ。その結果、復元モーメントの立ち上がりが想定より三割も遅延している。これは、物理の『処刑宣告』です。閣下。ここにいる学生たちは、明日、艦隊を率いて海へ出る若者たちです。彼らに、『計算上は沈むとわかっている船』に乗れと、命令されるおつもりか?」
頼の言葉に、学生たちが一斉に、腰に差した「計算尺」を抜き取るようにして、自分たちの計算用紙をテーブルに並べ始めた。
一人の教官の「妄執」ではなく、次代を担うエリートたちの、血を吐くような「正解」の連なり。
「屁理屈を! 軍機漏洩の疑いもあるぞ!」
将官たちが醜い防衛本能を剥き出しにする中、会議室の隅の山本五十六が立ち上がった。
「面白いな。艦政本部は、いつから『数学』を軍法会議にかけるようになったんだ?」
山本は不敵な笑みを浮かべ、レポートの一枚を指先で弾いた。
「次官。これには現役の学生全員が名を連ねている。もし、これを握りつぶしたならば、明日には全士官の間に『上層部は我々に沈む艦に乗れと命じた』という噂が、光の速さで広がるだろうな」
さらに頼が、地獄の底から響くような声で追い打ちをかける。
「この欠陥を隠蔽したまま次期条約交渉に臨むおつもりですか? 敵国から『日本の新型艇は自沈の恐れがある』と指摘されれば、帝國海軍の威信は海の底まで失墜するでしょう」
沈黙。
将官たちの目が、初めて「数字の羅列」へと注がれた。
「わかった。全艦艇の復元性能調査、および改修案の作成を命ずる」
次官が、唇を噛み切りそうな形相で告げた。
「だが吾妻!!もし再計算の結果、一分一厘でも計算に誤りがあれば、貴様と、ここにいる学生たちの将来は、文字通り『消える』と思え。貴様、これだけの騒ぎを起こして、ただで済むと思うなよ」
頼は軍帽を被り直し、深々と、しかしどこか不敵な礼をした。
「望むところです。真実を語る者が消される組織なら、その先に行末などありません。それに、国家の命運を『正しく計算』できるのであれば、私の進退など、誤差の範囲内です」
廊下へ出た頼と学生たち。窓から差し込む春の陽光が、戦いを終えた彼らの顔を照らしていた。
「教官。私たちは、変えられたんでしょうか、、、?」
結城が、冷や汗を拭いながら尋ねる。
「いや。今、本当の意味で『死線』を越えたのだ。だが、君たちが、歴史の歯車を数ミリだけ、正しく戻したのだ。これで少なくとも、日本の艦は、明日から幾寸かだけ深く、正しく波を切り裂くことになる」
頼の背中には、もう修羅の気配はなかった。
あるのは、上大崎の自宅で待つ、燈と、絢と、そして継の温もりへと続く、一人の父親の、安らかな足取りだった。
その背中を見送る山本五十六の目は、頼という男が、海軍という巨大な怪物の喉元を、ついに半分だけ喰いちぎったことを確信していた。




