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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第6章 1933年-1935年3月 海軍大学校編

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知性の牙

1934年3月中旬。


水雷艇「友鶴」が転覆し、百名以上の命が海の藻屑となった報せは、海軍大学校に重く冷たい影を落としていた。


教官室の窓から見える目黒の街並みは春の気配を帯びていたが、頼のデスクに積まれた「友鶴」の公試データ写しだけは、死の匂いを纏っている。


「これより、臨時演習を行う」


翌朝、頼は教壇に立つなり、一枚の演習課題を学生たちに配った。


それは「友鶴」の名を伏せた、ある仮想水雷艇の設計図面と、その復元性能の限界値を算出させるというものだった。


学生たちは、教官の異様なまでの静けさに息を呑んだ。


頼の背後には、かつて美保関で見た「神通」の裂けた船体や、呉で不眠不休で溶接機を握った職人たちの執念が、幻影のように立ち上っている。


「諸君。階級も、先入観も、すべて捨てろ。この『鉄の箱』が、荒天の中でどれだけの傾斜に耐えうるか。計算尺のみを信じ、真実を導き出せ」


教室に、数百本の計算尺が刻む、乾いた「カチカチ」という音が響き渡る。


最初は、いつもの難解な演習に過ぎなかった。


だが、いつしか教室の空気が変質し始めた。


最前列で計算尺を握っていた結城が、ふと手を止め、隣の原田の計算用紙を覗き込んだ。


「おい、原田。この排水量に対して、この重心高、あり得るか?」


「いや重心(G)が浮心(B)に対して高すぎる。これでは復元モーメントが立ち上がる前に、、、」


原田はそこまで言って、数日前の新聞の端にあった「友鶴」の兵装一覧を思い出した。


五百トンの船体に、不釣り合いなほどの連装砲。

カチカチという音が、一人、また一人と止まっていく。


やがて、原田の手が震え、計算尺をデスクに叩きつけた。


「教官。これでは計算が合いません。いいえ、合いすぎています」


原田の顔からは血の気が失せていた。続いて結城が、震える声でノートを差し出す。


「教官、、、この重心高では、十五度傾斜した時点で復元力が消失します。これは、先日の佐世保外海での地獄を、そのまま数字にしたものではないですか!」


一人が気づけば、伝染病のように教室全体に戦慄が広がった。


学生たちは、自分たちが導き出した「死の数式」と、新聞が報じる「不可抗力の天災」という大本営発表の乖離に、激しい混乱と怒りを覚え始めた。


「教官! なぜ、こんな!こんな出鱈目な設計が通ったのですか! 誰が、これを作らせたのですか!!」


原田の咆哮に、頼はゆっくりと視線を移した。


その瞳は、凍てつく冬の海のように冷たく、しかし底知れぬ怒りを宿していた。


「原田。作ったのは、君たちが憧れる『権威』だ。そして、これを見過ごしたのは、君たちが忠誠を誓う『組織』だ。私が配ったのは仮想艦の図面であり、これがもし君たちの計算尺が『友鶴』だと言うのなら、それが、海が突きつけた真実だ」


頼は、静かにチョークを置いた。


「私はかつて呉で、ボルト一本の公差が命を分ける現場を見た。軽巡洋艦神通の甲板で、友の血が鉄を濡らすのを見た。諸君。君たちはこれから、この『人殺しの設計図』が承認されるような組織を、率いていくつもりか?」


静まり返った講堂。頼は、学生たち一人一人の目を射抜くように見つめた。


「私は、一教官として、この数値を黙殺することはできない。だが、私一人が叫んでも、海軍省は『変人の妄執』として切り捨てるだろう」


頼は、教壇に一束の白紙を置いた。


「ゆえに、諸君に問う。海軍の『飼い犬』として、沈みゆく泥舟の上で静かに待つか。それとも、海軍の『頭脳』として、その牙をドグマの喉元へ突き立てるか」


原田が真っ先に立ち上がり、震える手で万年筆を握った。


続いて結城が、そして教室中の甲種学生たちが、次々と席を立った。


それは、海軍史上かつてない「知性の反乱」の始まりだった。


提出されたレポートの表紙には、頼の指導のもと、次代の将官候補生全員の署名が記されていた。


『友鶴型水雷艇の事故原因に関する、物理的検証報告書』


その夜、頼は一人、航空本部の山本五十六のもとを訪ねた。


「山本閣下、これを見てください。海軍の『未来』が、現在の『歪み』を数字で告発しました」


山本はレポートを数頁めくると、不敵に笑った。

「飼い犬が噛みつくか。いいだろう、吾妻。暴れるだけ暴れてこい。舵取りは私が引き受ける」


山本の確約を得た頼は、翌朝、海大校長の執務室の門を叩いた。


「校長。これは一教官のただの意見ではなく、山本閣下も注視されている『海大の公式研究』として提出願います。我が国の宝である彼らを、死ぬとわかっている艦に乗せないために!」


山本五十六という後ろ盾、そして海大校長の承認。二重の安全装置を確保し、頼はついに「爆弾」を抱えて、海軍省の最深部へと足を踏入れた。


背後に従うのは、軍装を端然と整えた教え子たち。

その胸には、勲章よりも誇らしい「真実の計算尺」が収まっていた。


「さあ、始めよう。海軍が、自分たちが飼い慣らしていたはずの『知性』に噛まれる瞬間をな」


廊下を歩く頼の背中には、もう迷いはなかった。


上大崎の自宅で待つ、燈、絢、そして生まれたばかりの継。


あの小さな命が生きる未来から、不条理な「死」を削り落とすための、吾妻頼の聖戦が幕を開けたのである。 

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