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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第6章 1933-

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枷(かせ)

1934年(昭和9年)4月


「友鶴事件」の激震は、たのむが海軍省に叩きつけた「数字の爆弾」によって、組織の全細胞を入れ替えるほどの大手術へと発展していた。


海軍省は公式に「臨時艦艇性能改善調査委員会」を設置し、頼は海大教官の席に身を置きながらも、実質的な技術監査の全権を握ることとなった。


「吾妻少佐、こちらを。特型駆逐艦『吹雪』の換算重量データです」


かつては頼を「机上の空論家」と蔑んでいた艦政本部の技師たちが、今や顔を青くして頼のデスクを囲んでいる。


頼の仕事は冷徹だった。


彼は面子などという名の余分な浮力を一切認めず、図面上の重心を、物理法則という名の絶対零度の牢獄へただ、叩き込んで行った。


ある日、頼が艦政本部の廊下を歩いていると、前方から一人の男がやってくるのが見えた。


藤本喜久雄大佐。


かつて、頼がその危うさを数値で警告した、友鶴型の生みの親である。


その顔は以前の精悍さを失い、深い皺と、隠しきれない疲労に覆われていた。


二人の距離が縮まる。


直接対峙すれば、罵倒されるか、あるいは泣きつかれるか、周囲の技師たちが息を呑んで見守る中、頼は、完璧な規律をもって足を止めた。


頼は無言のまま、軍帽に手をかけ、藤本に対して寸分の狂いもない敬礼を捧げた。


「....」


藤本も足を止めた。


その視線は、頼の脇に抱えられた「全艦艇改修計画案」の分厚いファイルに注がれる。


それは藤本が心血を注いだ芸術を、安定性という名の現実で、切り刻む、いわば処刑宣告書だった。


藤本は、何かを言いかけ喉を震わせた。


だが、結局言葉は出なかった。


彼は頼の敬礼に対し、力なく右手を上げると、そのまま幽霊のように頼の横を通り過ぎていった。

言葉を交わす必要はなかったのである。


藤本の背中に漂う終焉の匂いと、頼の指先に残る物理の重み。


天才が、別の種類の天才によって歴史の表舞台から押し出される、音のない決闘の終わりだった。


5月


海軍の全艦艇が、次々とドックへと入っていく。


過剰な連装砲は撤去され、艦橋は削り落とされ、船底には大量のバラストが流し込まれる。


「重武装」という虚飾を剥ぎ取られた日本の軍艦は、ようやく「正しく浮く鉄の意思」としての、不格好だが正しい重心を取り戻していった。 


上大崎の自宅。


久しぶりに早い時間に帰宅した頼は、庭の縁側に腰を下ろしていた。


夕闇の中、庭の桜の苗木が、若々しい葉を揺らしている。


「頼さん、お疲れ様でした。海軍の『お仕事』は、少し落ち着かれたのですか?」


燈が、静かに赤出汁を運んできた。


頼は、ふっと表情を緩めた。


「ああ。日本の艦は、これでようやく、真っ直ぐに浮けるようになった」


居間では、間も無く3歳になるあやが、1歳半のつぐるの手を引いて、「あんよ、上手」と声をかけている。


継は頼の姿を見つけると、ふらつく足取りで縁側までやってきて、頼の膝に小さな手を置いた。

その手の温もりが、頼に教える。


自分が今日、図面上で削り落とした「数千トンの鉄」が、不条理な転覆を消し去ったのだと。


「少し、重くなったな。いいぞ、継。そのまま、自分の重さをちゃんと持って大きくなるんだぞ」


頼が静かに呟くと、継は意味もわからず「にへっ」と笑い、頼の指をぎゅっと握りしめた。


その握力は、半年前よりも確実に力強くなっていた。


1934年(昭和9年)8月


真夏の太陽が、横須賀海軍工廠の巨大なドックを赤く熱していた。


そこには、特型駆逐艦から問題の友鶴型水雷艇までが、まるで手術台に乗せられた巨獣のように並んでいる。


海軍大学校の教官室で、頼は、受話器を耳に当てていた。


窓の外からは蝉時雨が聞こえてくるが、耳元から届くのは、工廠の喧騒と、不機嫌そうな久保田少佐の声だった。


『吾妻さん、聞きましたか。現場の連中は、この改修を「吾妻の去勢」と呼んでます。せっかく積んだ第三主砲塔をクレーンで吊り上げている最中だ。職人たちが泣きそうな顔でこっちを見てる』


久保田の背後から、リベットを叩く激しい音が響く。


「牙があっても、海に沈めばただの鉄屑です、久保田少佐」


頼はデスクに広げた図面に、冷徹な手つきで修正の横線を引いた。


「我々がやっているのは去勢ではない。その艦を『浮くための道具』に戻しているだけだ。重武装という見栄を捨て、復元性という現実を取る。それが、百名への唯一の鎮魂でしょう」


受話器の向こうで、久保田がふっと短く息を吐くのがわかった。


『全くだ。あなたの言う「数字の正論」を、私がこの手で「鉄の現実」に変えてみますよ。バラスト用の鉛、数百トンを船底に流し込む。これで重心は、吾妻さんの計算通り、地獄の底まで安定するはずです』


「お願いします、久保田少佐。現場を任せられるのは、貴方しかいない」


頼は受話器を置くと、すすに汚れた作業服ではなく、端然とした白い夏服の襟を正した。


教官として理論の盾を作り、現場の久保田が鉄を斬る。


この静かなる「外科手術」によって、日本海軍の全艦艇は、物理法則という名のかせで縛り直されていった。

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