表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、俺は旧日本海軍士官になった-【異世界年間最高104位/歴史日間最高9位/チート無歴史IF】  作者: 山口灯睦
第6章 1933年-1935年3月 海軍大学校編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/99

その重み

1933年11月6日


秋の冷気が、コンクリートの壁を伝って微かに頼の書斎を撫でていた。


深夜二時


頼はデスクに向かい、海大の次期演習用の資料を広げているが、その目は一文字も追えていない。


万年筆を握る指先が、不規則なリズムで机を叩く。


隣の寝室から漏れる、燈の短く、しかし決然とした呻き声。


今の頼にとっては、世界のどの外交文書よりも、隣の部屋で起きている「生命の格闘」の方が、はるかに重い質量を持っていた。


(計算通りには、いかないものだな、、、)


頼は、傍らの計算尺を手に取った。


分単位で陣形を制御し、秒単位で弾着を予測する。


それが自分の「異能」であり、生きる術だった。


だが、襖一枚隔てた先で起きている事象に対して、その理知は何の役にも立たない。


やがて産婆が到着し、静寂だった居間は、戦場のような熱気に包まれた。


頼は廊下に押し出され、ただの「観測者」に格下げされる。


お湯を運ぶ産婆の忙しない足音。


障子の向こうから聞こえる燈の


「うっ、、、」


という、魂を削るような苦悶の声。


頼は冷たい廊下に座り込み、自身の無力さを噛み締めた。


海軍省を動かし、学生をねじ伏せ、歴史という巨大な海流を書き換えようとしている男が、一人の女が命を懸けて新しい命を産み落とそうとするのを、ただ祈るように待つことしかできない。


「おとうさん?」


小さな声に、頼は顔を上げた。


二歳の絢が、騒がしさに目を覚ましたのか、寝間着姿で不安そうに立っていた。


頼は何も言わず、絢を抱き寄せ、自分の膝の上に乗せた。


「おかあさん、いたいいたい?」


「大丈夫だ、絢。お母さんは今、お前との約束を守ろうとしているんだ。新しい家族を、この家に迎えるための戦いをしているんだよ」


頼は、絢の小さな、柔らかな手のひらを、自分の大きな手で包み込んだ。


冷徹な軍人の手でも、教官の手でもない。


家族を、この温もりを、何があっても守り抜くと誓った一人の男の手として。


夜明け前。


東の空が、夜の帳をわずかに白く染め上げた、その瞬間だった。


障子の向こうで、すべてを断ち切るような、驚くほど力強く、野太い声が響き渡った。


「おぎゃあ! おぎゃあ!!」


その産声は、海軍のいかなる号令よりも凛々しく、大砲の轟音よりも頼の魂を震わせた。


産婆が勢いよく障子を開け、顔を上気させて告げる。


「おめでとうございます! 元気な、本当に元気な男の子ですよ!」


頼は、吸い寄せられるように部屋へ入った。


そこには脂汗を浮かべ、憔悴しきった燈がいた。


だが、産婆に抱かれた赤子を見つめる彼女の瞳には、神々しいまでの慈愛が宿っていた。


「頼さん、、、この子が、つぐるです」


頼は、震える指先で、生まれたばかりの息子の顔に触れた。


真っ赤で、しわくちゃで、だが、頼の小指を、折れんばかりの力で握りしめてくる。


燈と2人で決めた名、つぐる


頼は息子を腕の中に抱き上げた。


計算尺では決して測ることのできなかった、圧倒的な「命」の重み。


この小さな手が、いつか鉄と火の時代に翻弄されることがあってはならない。


この子が、泥にまみれた塹壕で果てることも、燃える甲板で散ることも、俺は決して、断じて許さない。


窓の外では、朝陽を浴びた庭の桜の苗木が、冷たい秋風に耐えながら、誇らしげに枝を伸ばしていた。


「守るべきもの」が、数字の羅列から、血の通った一人の人間へと完全に変わった。


1933年11月6日


吾妻頼の「守るための戦い」に、真の魂が宿った日として、彼はこの日を一生忘れないだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ