その重み
1933年11月6日
秋の冷気が、コンクリートの壁を伝って微かに頼の書斎を撫でていた。
深夜二時
頼はデスクに向かい、海大の次期演習用の資料を広げているが、その目は一文字も追えていない。
万年筆を握る指先が、不規則なリズムで机を叩く。
隣の寝室から漏れる、燈の短く、しかし決然とした呻き声。
今の頼にとっては、世界のどの外交文書よりも、隣の部屋で起きている「生命の格闘」の方が、はるかに重い質量を持っていた。
(計算通りには、いかないものだな、、、)
頼は、傍らの計算尺を手に取った。
分単位で陣形を制御し、秒単位で弾着を予測する。
それが自分の「異能」であり、生きる術だった。
だが、襖一枚隔てた先で起きている事象に対して、その理知は何の役にも立たない。
やがて産婆が到着し、静寂だった居間は、戦場のような熱気に包まれた。
頼は廊下に押し出され、ただの「観測者」に格下げされる。
お湯を運ぶ産婆の忙しない足音。
障子の向こうから聞こえる燈の
「うっ、、、」
という、魂を削るような苦悶の声。
頼は冷たい廊下に座り込み、自身の無力さを噛み締めた。
海軍省を動かし、学生をねじ伏せ、歴史という巨大な海流を書き換えようとしている男が、一人の女が命を懸けて新しい命を産み落とそうとするのを、ただ祈るように待つことしかできない。
「おとうさん?」
小さな声に、頼は顔を上げた。
二歳の絢が、騒がしさに目を覚ましたのか、寝間着姿で不安そうに立っていた。
頼は何も言わず、絢を抱き寄せ、自分の膝の上に乗せた。
「おかあさん、いたいいたい?」
「大丈夫だ、絢。お母さんは今、お前との約束を守ろうとしているんだ。新しい家族を、この家に迎えるための戦いをしているんだよ」
頼は、絢の小さな、柔らかな手のひらを、自分の大きな手で包み込んだ。
冷徹な軍人の手でも、教官の手でもない。
家族を、この温もりを、何があっても守り抜くと誓った一人の男の手として。
夜明け前。
東の空が、夜の帳をわずかに白く染め上げた、その瞬間だった。
障子の向こうで、すべてを断ち切るような、驚くほど力強く、野太い声が響き渡った。
「おぎゃあ! おぎゃあ!!」
その産声は、海軍のいかなる号令よりも凛々しく、大砲の轟音よりも頼の魂を震わせた。
産婆が勢いよく障子を開け、顔を上気させて告げる。
「おめでとうございます! 元気な、本当に元気な男の子ですよ!」
頼は、吸い寄せられるように部屋へ入った。
そこには脂汗を浮かべ、憔悴しきった燈がいた。
だが、産婆に抱かれた赤子を見つめる彼女の瞳には、神々しいまでの慈愛が宿っていた。
「頼さん、、、この子が、継です」
頼は、震える指先で、生まれたばかりの息子の顔に触れた。
真っ赤で、しわくちゃで、だが、頼の小指を、折れんばかりの力で握りしめてくる。
燈と2人で決めた名、継。
頼は息子を腕の中に抱き上げた。
計算尺では決して測ることのできなかった、圧倒的な「命」の重み。
この小さな手が、いつか鉄と火の時代に翻弄されることがあってはならない。
この子が、泥にまみれた塹壕で果てることも、燃える甲板で散ることも、俺は決して、断じて許さない。
窓の外では、朝陽を浴びた庭の桜の苗木が、冷たい秋風に耐えながら、誇らしげに枝を伸ばしていた。
「守るべきもの」が、数字の羅列から、血の通った一人の人間へと完全に変わった。
1933年11月6日
吾妻頼の「守るための戦い」に、真の魂が宿った日として、彼はこの日を一生忘れないだろう。




