命の予感
海大の教壇を後にしても、頼の脳内ではまだ、数式の残像がチョークの粉と共に舞っていた。
廊下ですれ違う学生たちが、そのあまりに峻烈な横顔に息を呑み、壁際に身を寄せる。
だが、頼の意識はすでに、次なる「戦場」へと飛んでいた。
彼は軍帽を深く被り直すと、校門を出て、最寄りの目黒駅へと大股で歩き出した。
向かう先は、霞ヶ関、艦政本部である。
日中の穏やかな陽光が差し込む省線の車内。
頼は吊り革を掴み、窓外を流れる景色を色彩のない「距離と時間の関数」として処理しながら、胸ポケットの計算尺に指をかけた。
海大が「未来を計算する理論の教室」ならば、艦政本部は「現実と血を流し合う実機の工場」だ。
揺れの中で一人、頼の瞳だけが、頭の中に展開された巨大な図面の公差を追い続けていた。
有楽町駅で下車し、外堀沿いの道を霞ヶ関へと歩く。
赤レンガ造りの海軍省庁舎が見えてくると、頼は無意識に歩速を上げた。
重厚な石造りの門をくぐり、艦政本部へと足を踏み入れる。
一歩中へ入れば、そこは海大の静謐とは対極にある、剥き出しの戦場だった。
廊下にまで溢れる図面と、電話のベル、そして技師たちの怒号。
かつて頼が身を置いたその戦場の中央で、久保田少佐は腕を捲り、部下たちを怒鳴り散らしていた。
「吾妻さん。いえ、今は教官殿とお呼びすべきですかね」
頼の姿を認めた久保田が、汗を拭いながら歩み寄る。
二人の間には、階級や先任順位を超えた、技術者としての深い信頼と、一抹の「立場の差」が生じ始めていた。
「久保田少佐。お忙しいところ、失礼します。例の規格化に伴う部品の共通化、進捗はどうですか」
「見ての通りですよ。現場の職人からは『今まで通りにやらせろ』と騒ぎ、上からは『予算を削れ』と横槍が入る。海大の象牙の塔で、優雅に将来の元帥閣下たちを教育しておられるあなたとは、流れる時間の速さが違いますよ」
久保田は自嘲気味に笑いながらも、頼が持参した修正図面を食い入るように見つめる。
頼の指摘は、現場が数週間悩んでいた「公差」の問題を一瞬で解決するものだった。
「助かりますよ、やはり。このボルト一本の公差にまで、国家の可動率を詰め込む。あなたは現場を離れても、我々の数歩先を見据えている」
久保田は敬意を込めて敬礼を返すと、不意に表情を和らげた。
「そういえば、燈さんの予定日はいつでしたか。実家の母が、お祝いの品をいつ送ればいいかとうるさくてね」
「十一月の予定です、久保田少佐。お気遣い痛み入ります」
「十一月ですか。いいですか吾妻さん。現場の不具合は私が叩き直しますが、新しい家族の『規格』ばかりは、あなたの計算通りにはいきませんよ。ご家族の為にも今のうちに予備の燃料(睡眠)をしっかりと蓄えておいてください」
久保田はそう言って、ニヤリと頼の顔を覗き込んだ。
「ちなみに、燈さんのお腹はどっちです? 前に突き出していれば男の子、横にふっくらなら女の子、現場の職人の間じゃ、的中率は九割らしいですよ?」
「そんなものは非科学的です。母体の姿勢や腹筋の強度の問題ですよ」
頼は鼻で笑って一蹴したが、久保田が去った後、手元の修正図面を見つめるその目は、どこか上の空だった。
結局、図面の最終確認には、いつもより時間を要した。
頼は、久保田が守る「現場の熱気」と、ふと突きつけられた「父としての予感」を同時に背負ったまま、艦政本部を後にした。
上大崎の坂を登る頼の足取りは、海大の教壇に向かう時よりもわずかに速い。
玄関を開け、赤出汁の香りが漂う「静寂」に触れた時、頼は初めて「自分が守るべき一線」の内側に戻ったことを実感する。
それは頼にとって、軍人でも教官でもなく、「一人の男」へと戻るための儀式のような空間だった。
「ただいま」
「おかえりなさい、頼さん。今日は少しお早かったのですね」
居間では、燈が腰を落ち着け、秋に向けて絢の衣類を繕っていた。
その足元で絢が、不思議そうに燈の少しふっくらとしたお腹を見つめている。
頼は軍服の襟を緩め、その傍らに膝をついた。
「絢。そこに、新しい命がいるんだよ」
頼が静かに語りかけると、絢は小さな首を傾げ、おそるおそる小さな手のひらを燈のお腹に当てた。
頼が日々扱っている計算尺や図面では決して測ることのできない、不規則で、しかし力強い命の震え。
「あかちゃん、ねんね?」
「そうよ、絢。もうすぐ赤ちゃんが生まれてくるの。あなたは、お姉ちゃんになるのよ」
燈が優しく微笑み、絢の頭を撫でる。
絢は「おねえちゃん」という響きを咀嚼するように瞬きをすると、今度は自分から、小さな手で燈のお腹を「よしよし」と撫で始めた。
その光景を、頼は無言で見つめた。
頼は、燈の隣に座り、その肩にそっと手を置いた
「燈。気分はどうだ」
「ええ、とても落ち着いています。この子は、頼さんに似て少し大人しいのかもしれませんね」
頼は頷きながらも、先ほど久保田から聞いた非科学的な「目測」を、無意識のうちに行っていた。
(前に、突き出している、のか?)
数値化できない膨らみを、頼の脳内の計算尺が必死に捉えようとする。
だが、すぐにその考えを振り払った。男でも、女でも、この手に抱くその日まで、この「未知の数式」を大切に解き明かしていこう、そう決めていた。
海大の教室で、原田、結城たちエリート学生を数字でねじ伏せ、山本五十六や鈴木貫太郎と国家の命運を論じる。
その全ての「動機」が、今、この空間の静寂に集約されていた。
窓の外では、庭の隅に植えた桜の苗木が、夏の強い日差しを耐え抜き、夕闇の中で着実に根を広げていた。
頼の手のひらにも、燈のお腹越しに、新しい命の脈動が伝わってきた。
もうすぐ授かる新たな命。
その子が生きる未来から、飢えと砲火を計算で消し去る。
秋の気配とともに、吾妻頼の「守るための戦い」は、その解像度をいっそう高めていた。




