一人の修羅
翌朝
上大崎の自宅を出る頼の耳には、まだ朝食の席で絢が立てた匙の音と、燈の穏やかな見送りの声が残っていた。
だが、目黒の海大正門を潜り、教壇へと続く階段を一段ずつ上がるにつれ、頼の表情からは「父親」の温もりが削ぎ落とされていく。
一段上がるごとに、心臓の鼓動が冷徹な時計の刻みに変わる。
一段上がるごとに、視界は色彩を失い、世界を構築する「数字」だけが浮き彫りになっていく。
教室の扉を開けたとき、そこに立っていたのは、愛する者を守るために「地獄の底まで計算し尽くす」と決めた一人の修羅であった。
頼は無言で教壇へ歩みを進めると、そこに置かれた一枚の回答用紙を、射抜くような視線で見下ろした。
教壇に置かれた原田の再回答、自信に満ちた、だが昨日と同じ「十二隻」という数字。
完膚なきまでに叩き潰され、徹夜で『損耗率』を組み込み、無理やり数を揃えた執念の結晶だ。
頼はそれを、まるで出来の悪い子供の落書きを見るような目で見下ろした。
「原田。一二隻では足りぬと言った。だが、実はそれ以前の問題だ」
頼は、黒板にさらに別の数字を書き加える。
今度は「石油の貯蔵量」と「タンカーの建造能力」だ。
「仮に君が、損耗を恐れず十二隻を送り出したとしよう。だが、その十二隻を動かす燃料、そしてその十二隻が沈んだ後に補充される艦、、、それらはどこから湧いてくる? 海水から石油が作れるのか?」
原田は青ざめながらも、絞り出すように反論する。
「ならば、教官! 最初からその損耗分を見越し、倍の二十四隻を送り出せば済む話です! 足りない分は、民間の商船を根こそぎ徴用すれば! 日本の底力を甘く見ないでいただきたい!」
「『日本の底力』か。その言葉で、これまでに何人の兵士が餓死したと思っている」
頼の声は、怒鳴るよりもなお恐ろしい、静かな響きを帯びていた。
「原田。君たちがこの『十二』という数字を出すのに費やした三ヶ月間、戦場では何が起きるか想像したことがあるか。燃料の切れた駆逐艦が沈み、物資の届かない拠点の兵士が、一日一人ずつ餓死していく。君たちが『一分』で出すべきだった回答を三ヶ月かけた。その遅延の代償は、数万人の命だ」
「民間船を奪えば、国内の米も、石炭も、鉄鉱石も運べなくなる。工場が止まり、君たちが誇る戦艦の弾薬すら作れなくなる。君の『必勝戦術』は、戦う前に自国の喉を自ら切り裂いているのだ」
頼はチョークを折らんばかりの力で、黒板の「徴用」という文字を塗りつぶした。
「いいか。兵站とは『奪い合い』ではない。国家という巨大なエンジンの、限られた潤滑油をどこに配分するかという『調整』だ。全体の出力を見ずに、一部のシリンダーだけに油を注げば、エンジンそのものが焼き付く。原田、君が殺そうとしているのは、敵ではない。この国そのものだ」
教室を支配したのは、重苦しい沈黙だった。
かつて戦術の天才と持て囃された若きエリートたちが、一人の「計算屋」が提示した現実の前に、まるで手折られた草のように項垂れている。
だが、頼は彼らを絶望させるためだけに、ここに立っているわけではない。
「絶望したか。ならば、そこからがようやく『思考』の始まりだ」
頼は、黒板の端に小さく、しかし力強い筆致で一つの「%(パーセンテージ)」を書いた。
「輸送船の損耗を三割以下に抑え、かつ荷役の回転率を一割五分向上させる。これさえ達成できれば、原田、君の言う『十二隻』でも、前線へ必要な物資の八割を届けることが可能になる」
原田が、縋るように顔を上げた。
「どうやって、そんな、、、」
「私もかつて、現場で同じ計算に一週間かかった。その一週間の遅れが、三菱の職人を、そして前線の兵をどれほど追い詰めたか。私は二度と、自分の無能で人を殺したくない」
「それを、これからの講義で、私と一緒に『計算』するのだ。航空機による護衛の最適化、港湾設備の規格化、そして君たちが『卑怯者の隠れ家』と蔑む潜水艦による補給路の寸断。あらゆる手段を、数字の裏付けを持って構築する」
頼は、教壇に散らばったチョークの粉を払い、軍帽を被り直した。
「諸君。私は、戦地で、艦の上で、勇気を叫ばせるような講義をするつもりはない。だが、死ななくていい兵士を死なせないための『計算尺』は授けられる。ついてこられる者だけ、明日もここへ来い」
頼が教室を後にしたとき、廊下にはまだ夏の熱気が残っていた。
背後から聞こえてきたのは、整列の号令ではない、それは、堰を切ったように溢れ出した、戸惑いと、怒りと、そして必死の計算の音だった。
「原田、もう一度計算尺を回せ! 教官の言った『回転率一割五分向上』、これを荷役作業員の増員だけで賄おうとすれば、今度は内地の労働力が足りなくなるぞ!」
「分かっている! 結城、貴様は輸送船の航路最適化を洗え。最短距離じゃない、潜水艦の回避を含めた『最速』の数字を出せ!」
廊下を歩く頼の背中に、数字をぶつけ合い、互いの精神論を削り落としていく学生たちの声が突き刺さる。
それは、昨日までの空虚な「必死」ではなく、生き残るための「真実」を求める泥臭い咆哮だった。
その時頼の口元には、微かな、本当に微かな笑みが浮かんでいた。
翌週金曜日の最終限
教壇に立った頼は、黒板に大きく「16:00以降、階級を廃止する」とだけ書いた。
学生たちは息を呑み、静まり返る。
「先週、諸君が見せたあの醜い言い争い。あれこそが、この国を救う『知性の形』だ」
頼は、教壇の端に腰を下ろした。
「兵站に、上官の命令による正解などない。あるのは、物理的限界と、それを突破するための最適解のみだ。ゆえに、本日より金曜のこの時間は講義を廃止し、『実数検討会』とする。教官としての私の言葉すら、数字で否定してみせろ。否定できなければ、君たちの戦術はただの妄想だ」
頼は軍帽を脱ぎ、机に置いた。
「これよりの時間、私は一人の計数屋としてここに座る。原田。先週の『十二隻』の続き、数字は揃ったか?」
原田が、隈の浮いた目を光らせて立ち上がった。
その手には、書き込みすぎて黒ずんだ計算用紙の束がある。
「揃いました。ですが、吾妻教官の言う『一割五分』ではまだ足りません。潜水艦の被害を最小限にするには、あと三分……『一割八部』の向上。そのためのクレーン規格化案、持ってきました!」
「ほう。見せてみろ」
頼は、原田が差し出した真っ黒に汚れた計算用紙を手に取った。
指先でその計算をなぞり、わずかに眉を動かす。
「三ヶ月かかったが、計算の精度だけは合格だ、原田」
頼が初めて見せた微かな肯定に、原田の肩が小さく震えた。
教室の温度が、一気に数度上がった。
それは、後に名付けられる、「金曜の泥沼」の始まりだった。




