槌音(つちおと)
1933年7月
梅雨明けの熱気が、海大校舎を包み込んでいた。
上大崎の自宅の涼しさは、そこにはない。
教壇に立つ頼の目の前には、白の夏割ポロシャツに身を包んだ「甲種学生」たちが並んでいる。
以前の講義で「タンカーの隻数」を算出できず、頼に「空想家」と断じられた彼らの目は、屈辱と反発に燃えていた。
「教官。例の宿題、算出しました」
一人の学生が、挑戦的な態度で立ち上がった。
原田大尉、艦隊派の重鎮を父に持ち、演習成績は常にトップ、大艦巨砲主義の申し子のような男だ。
四月の最初の講義で頼が突きつけた「一分以内に算出せよ」という問いに対し、彼らが三ヶ月の月日を費やしてようやく導き出した、執念の結晶。
それが今、黒板に書かれた「十二隻」という数字だった。
「燃料、弾薬、糧食。すべてを軍令部の想定最大戦速に基づき、安全率を二割加算して算出しました。タンカーの隻数は十二隻。これならば、いかなる強行突破においても、艦隊の足が止まることはありません」
原田が黒板に誇らしげに書いた数字に、他の学生たちも「どうだ」と言わんばかりの視線を頼へ向ける。
だが、頼はチョークを持ったまま、その数字を冷ややかに一瞥した。
「原田。君の計算には、肝心の『変数』が一つ欠けている」
「変数? 予備燃料の計算なら、二割も積んでおります!」
「違う。輸送船そのものが『消える』という変数だ」
頼は黒板に、原田の書いた「12隻」という数字を、太い斜線で消した。
「諸君。君たちの描く戦場は、常に『鏡の上の演習』だ。敵は君たちの補給線を黙って見過ごすとでも思っているのか? 潜水艦、航空機。それらによる損耗を計算に入れない補給計画など、ただの自殺志願書の書き写しにすぎん」
頼は、航空本部時代に極秘で集計させた、過去の小規模紛争における商船の被弾・沈没率の統計データを黒板に叩きつけた。
「いいか。補給とは、出した分が届くことではない。届くべき分を逆算し、途中で『殺される分』をあらかじめ積み増し、さらにそれを護衛するコストを支払うことだ。原田。君の計算に『護衛艦艇の燃料消費』と『撃沈予測による再編コスト』を加えろ。そうすれば、その十二隻という数字が、いかに無邪気な子供の遊びか分かるはずだ」
頼は折れたチョークを置き、新しい一本を手に取った。
黒板に、一隻の輸送船を中心とした同心円を描き出す。
「原田。君の『12隻』は、港を出た瞬間に敵潜水艦の索敵網に捕まる。護衛艦を付ければその分だけ船団の投影面積は広がり、発見率は対数的に跳ね上がる。いいか、この海域の平均透明度と気象統計から算出される、敵航空機による有効視認距離は、およそ二十海里だ」
頼の手が黒板を走るたび、数式が複雑な幾何学模様のように広がっていく。
「一隻が沈めば、船団はその回避行動のために巡航速度を二ノット落とさざるを得ない。その遅延が、さらに次の空襲を呼び込む。計算してみろ。目的地の港に、無傷で辿り着ける船が何隻残るか」
「くっ、、、」
原田は、自分が書き込んだ「12」という数字が、頼の描く数式によって一つ、また一つと削り取られていくのを、ただ茫然と見つめることしかできなかった。
教室には、チョークが激しく黒板を叩く音だけが響いている。
それは学生たちにとって、自分たちが信じていた「輝かしい海軍の未来」が打ち砕かれる槌音に他ならなかった。
教室内が凍りついた。
学生たちが信じてきた「必勝の戦術」が、頼の振るう「統計」という名の無機質な刃によって、音を立てて崩れていく。
「教官。それでは、戦う前から『負ける』ことを想定せよというのですか!」
絞り出すような原田の問いに、頼は静かに、しかし断固として告げた。
「そうだ。最悪を想定し、その絶望を数字でねじ伏せるのが兵站だ。原田、明日までにもう一度計算し直してこい。損耗を前提とし、なおかつ前線へ必要な物資を届けるための『真の隻数』をな」
頼の言葉が、窓の外で蝉の声が響く教室に、重く、深く沈殿していく。
その日の講義が終わった後。
学生たちが重い足取りで去るなか、最後列で一人、計算尺を握りしめたまま動けない結城がいた。
彼は、頼の突きつけた「損耗率」という地獄のような数字のなかに、それでも「生き残る道」を見出そうと、震える手でノートを埋めていた。
頼はそれを見届けると、鞄を手に教室を出た。
夕暮れの目黒、松並木の坂道を上りながら、頼の心にあるのは、これから始まる「消耗の時代」への、静かなる宣戦布告だった。
上大崎の自宅へ続く道。
頼の背中には、一人の父親としての執念と、この国を「合理」で再定義しようとする革命家の影が、長く伸びていた。




