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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、俺は旧日本海軍士官になった-【異世界年間最高104位/歴史日間最高9位/チート無歴史IF】  作者: 山口灯睦
第6章 1933年-1935年3月 海軍大学校編

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原点

1933年6月


梅雨入り前の晴れ間の青空の下、上大崎の高台には、周囲の松並木を鏡のように映し出す灰白色の「城」が完成していた。


吾妻邸。


過度な装飾を排したその佇まいは、無機質ながらも、どこか山嶺さんれいのような気高さを纏っている。


数日前、頼は海大の廊下で山本に呼び止められていた。


「吾妻、例の家が完成したそうだな。土曜の午後にでも、少しお邪魔しても良いかな? 飯の支度はいらん。いいな?」


有無を言わせぬ、しかしどこか楽しげな打診だった。 


「よし、これで最後だ」


頼は軍服を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げて、庭の北東の角に一本の桜の苗木を据えた。


その傍らには、小さなシャベルを握りしめた二歳の絢が、鼻の頭に泥をつけて立っている。


「あやも、やる!」


「ああ、絢。最後は君の番だ」


頼が促すと、絢は一生懸命に小さなシャベルで土を掬い、苗木の根元にかけた。


仕上げと言わんばかりに、小さな手のひらとシャベルの裏で、土を叩く。


「ぺんぺん! ぺんぺん!」


頼は娘の泥だらけの手を優しく拭い、その小さな背中越しに、まだ瑞々しい桜の葉を見つめた。


「ごめんください。おや、吾妻君。庭仕事の最中だったかな」


坂の下から、穏やかだが張りのある声が響いた。


頼が振り返ると、そこには白麻の夏服を端然と着こなした山本五十六と、その後ろでパナマ帽を脱ぎ、柔和な微笑を浮かべる老将が立っていた。


侍従長・鈴木貫太郎。


「山本閣下、鈴木侍従長! 申し訳ありません、このような姿で」


頼が慌てて姿勢を正そうとするのを、鈴木が手で制した。


「いいんだよ。山本君に無理を言って同行させてもらったんだ。突然お邪魔して、奥方には悪いことをしたね」


白い割烹着姿で玄関に現れた燈は、予想だにしない国の中枢の来客に驚きながらも、深々と頭を下げた。


「山本閣下、鈴木閣下。ようこそお越しくださいました。どうぞ、中へ」


「ああ、山本君、例のものを」


山本は、恭しく包みを差し出した。


「吾妻くん、鈴木閣下からは日本橋『うさぎや』の最中だ。私からは故郷の酒、『越の寒梅』を一升。お嬢さんには『資生堂パーラー』の菓子があるぞ」


「身に余る光栄です。ありがとうございます」


頼は泥の手を拭い、畏まってそれらを受け取った。


鈴木は邸宅の分厚いコンクリート壁を、掌でそっと撫でた。


「昨今の華美なだけの邸宅とは違う。家族を守るという『覚悟』が、この壁の厚みに滲み出ているようだね。震災の地獄を知る身としては、君の考えは実によく分かるよ」


広間に入ると、山本の馴染みの店から、見事な漆塗りの桶寿司が届けられた。


「さあ、今日は無礼講だ。吾妻くん、燈さんもお座りなさい。絢ちゃん、ほら、おいしい玉子焼きだぞ」


山本が大きな桶を食卓の真ん中に置く。


蓋を開けた瞬間、酢飯の香りと共に、宝石箱のようなネタが並んだ。


絢は目を輝かせ、山本の膝の上で「おいちい!」と甘い玉子焼きを頬張る。


「お嬢さんは今、この家の根っこを固めてくれたばかりだろう? 偉いねえ、絢ちゃん。春には綺麗な花が咲くといいね」


鈴木が穏やかな口調で絢を愉し、自分の箸でコハダを摘まむ。


宴もたけなわ、三人は燈が丁寧に淹れた茶を囲んだ。


「海大での君の講義、省内でも評判だよ」


鈴木が茶碗を置き、静かに頼を見つめた。


「精神論を排し、数字で現実を突きつける。それは今の日本に最も足りない、そして最も『怖い』ものだね。だが、それを教壇で語れる人間は、君しかいない」


「私はただ、非合理な計画で将兵を死なせたくないだけです」


「そうだね。その『臆病さ』こそが、真の誠実さだ。吾妻君、これからも私の話し相手になってくほしい。君のその『計算』を、もう少し詳しく聞いておきたくてね」


鈴木の穏やかな眼差しが、頼の胸の奥にある焦燥を優しく解きほぐしていく。


その時だった。


山本の膝から降りた絢が、ひょこひょこと燈のそばへ歩み寄った。


そして、燈の少しふっくらとしたお腹を小さな手でそっと指差し、不思議そうに首をかしげた。


「あかちゃん?」


一瞬、一座が静まり返った。


鈴木と山本が、弾かれたように顔を見合わせる。


二人のベテランは、燈の柔和な面差しから即座にすべてを察した。


山本が膝を打って、身を乗り出した。


「おお! 吾妻くん、これは! 良い家を建てたと思ったら、とっておきの『家宝』まで用意しておったか! 重ね重ね、めでたいな!」


頼は姿勢を正し、誇らしげに、しかし大真面目な顔で深く一礼した。


「ありがとうございます! 私なりに、万全を期して準備してまいりました。これからの時代、ここが彼らにとって最も安全な場所になると確信しております」


頼の頭にあるのは、特注のコンクリート配合比率や、この家そのものが誇る「鉄壁の防御性能(家宝)」であった。


だが、それを聞いた鈴木貫太郎は、いっそう目を細めて深く頷いた。


「ほう、万全の準備。そして最も安全な場所、ですか。その子(家宝)にとって、これほど頼もしい父の言葉は他にありませんね」


「全く、吾妻くんらしい言い回しだ。父親としての責任感が服を着て歩いているようだ」


山本も豪快に笑う。


燈だけが、そのやり取りの可笑しさに、口元を袂で隠して静かに笑っていた。


(頼さん、絶対『家』の話だと思っていますね。そんなところもあるんですね、ふふ)


あんなに自信満々な顔をして。


二歳になったばかりの娘にさえ先を越されたことに気づかない夫を、燈はただ、慈しむような眼差しで見つめていた。


夕暮れ時。


二人を見送ったあと、頼は再び庭の桜の前に立った。


絢が叩いた「ぺんぺん」という土の跡が、まだそこにある。


航空本部という現場を奪われ、海大という「言葉」の戦場へ送られた頼。


だが、この上大崎の要塞に、日本の中枢を動かす「合理」の種、そして未来へと続く新たな命の息吹は、確かに宿ったのである。


夕闇が迫り、燈が絢を風呂に入れている間、頼は一人、二階の書斎に入った。


窓からは、眼下に広がる東京の夜景が見える。


かつて震災で灰燼に帰したこの街が、今は電気の瞬きを纏い、不夜城のように輝いている。


頼は、まだ家具の少ない机の端に、銀縁のフレームに収められた一枚の写真を置いた。


数年前の冬、祝言の日に撮影されたものだ。


燈の父、保がライカを三脚に据え、袖口に細いケーブルを隠すようにして席に戻り、「動かずに。いきますよ」と静かに告げ、膝の上でそっとシャッターを切った、あの五人だけの写真。


写真の中では、他界した父に代わって並ぶ保と恵子、そして頼の母・静が、緊張と慶びが混ざったような面持ちで収まっている。


頼は、そのセピア色の画面を指先でなぞった。


頼にとって、この写真は単なる記念ではない。


計算尺で弾き出し家族を守るための、「座標の原点」であり、自分がこの時代に繫ぎ止められている「証拠」であった。


階下から、絢と、そして間もなく生まれてくる新しい命の気配を運ぶ、燈の柔らかな笑い声が聞こえてくる。


吾妻頼の、孤独な、しかし確信に満ちた新たな闘いがここから始まるのだ。

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