勇気と自信
1933年5月
海軍大学校の講義室には、初夏の風ではなく、刺すような緊張感が停滞していた。
頼が教壇で示したのは、南方方面への架空の進出計画に基づく、輸送船団の損耗率予測だった。
「以上だ。精神論で弾薬は増えず、大和魂で重油は精製されない。質問はあるか」
頼がチョークを置くと、学生たちは不快そうに視線を逸らした。
だが、最後列で一人、震える手で計算尺を握りしめている男がいた。
結城辰雄大尉。
成績は優秀だが、声が小さく、常に何かを恐れているような物腰から、同期の間では「結城なのに勇気がない」と揶揄されている男だ。
講義終了の合図とともに学生たちが去っていく中、結城は意を決したように教壇へ歩み寄った。
「あの、吾妻教官。お忙しいところ、申し訳ありません」
「結城か、どうした」
「昨日の講義、揚陸効率の件です。何度計算し直しても、教官の示された『三割の損失』に対し、私の計算では、、、あと五分の、上振れが出てしまうのです」
結城は、びっしりと数式で埋まったノートを差し出した。
「どこかで変数を間違えたのではないかと、昨夜から四回計算し直したのですが、やはり、こうなります。私の、私の見落としでしょうか」
その声は消え入りそうで、自信なげだ。
だが、差し出されたノートを見た頼の目は、わずかに見開かれた。
結城は、港湾クレーンの旋回速度だけでなく、「荷役作業員の疲労による、日没後の事故発生率」まで独自の係数として組み込んでいた。
「お前は、この数字に自信がないのか?」
「はい。私のような未熟者が、教官の数字に疑義を持つなど。ただ、どうしても計算が合わないのが、怖くて」
西日が差し込む講義室には、微かにチョークの粉が舞っていた。
窓の外からは、武道場で剣道を嗜む学生たちの、鋭くもどこか虚しい気合が風に乗って響いてくる。
だが、頼が目の前の青年に見出したのは、そんな勇ましさとは無縁の、鋭利な刃物のような知性の震えだった。
頼は資料を鞄に詰めると、短く言った。
「少し歩けるか?」
二人は海大の赤レンガを後にし、夕闇が迫る目黒の坂道を上大崎へと歩き始めた。
松並木を揺らす風は心地よいが、結城は教官の沈黙に耐えかねたように俯いている。
「教官。やはり、私の計算は、、、」
「自信を持てとは言わない」
頼の低く、断定的な声が坂道に響いた。結城が息を呑んで顔を上げる。
「計算に自信は不要だ。必要なのは、わずかな誤差すらも許さないという『臆病なまでの執着』だ、結城。自信満々に間違った計画を立てる勇者など、戦場にはいらん。自分の計算を疑い、夜も眠れずに何度も検算する。その臆病さこそが、最前線の兵士に届くはずの最後の一箱を守るんだ」
やがて二人は、建設中の吾妻邸の前に辿り着いた。
6月の完成を控え、外観はほぼ出来上がっているが、邸内はまだ建築の匂いが満ちている。
頼は戸惑う結城を連れて、ガランとした広間に入った。
「俺の家だ。来月にはここへ移る。この壁の厚さを見てみろ。通常の三倍はある。なぜか分かるか?」
「地震、でしょうか」
「俺が臆病だからだ。もし、自分の計算が『一分』でも甘かったら、家族を殺すことになる。結城、お前がノートに書き込んだその『迷い』は、そのまま現場の命の重みだ」
頼の声は、夜の工事現場に重く響いた。
「声を張る必要はない。だが、計算は止めるな。お前が臆病であればあるほど、この国の兵站は強固になる。君のその慎念に、俺は期待しているんだ」
結城は、黙って深く頭を下げた。
暗闇の中、軍帽の庇で隠れたその目には、生まれて初めて自分の「弱さ」を肯定された男の、静かな光が宿っていた。
窓の外では、目黒の松並木が五月の風に揺れている。
頼は一人、月光に照らされたコンクリートの壁を一度だけ愛おしそうに撫でると、慣れ親しんだ築地の官舎へと足を向けた。
書類の山や、ひっきりなしに電話が鳴り響く航空本部の夜はもうない。
海軍大学校での教職は、頼から「現場」を奪ったが、代わりに「時間」という別の資源を与えていた。
官舎の玄関を開けると、いつもの出汁の香りが鼻をくすぐった。
「ただいま」
「おかえりなさい、頼さん。今日は少しお早かったのですね」
割烹着姿の燈が、台所から顔を出す。その足元では、絢が、頼の姿を見つけて駆け寄ってくる。
「ああ。絢、よしよし。まだ風呂は入っていないな?」
「はい、ちょうど今から入れようと思っていたところです」
頼は軍服のボタンを外し、ネクタイを緩めた。
「俺が入れる。燈は飯の仕上げをしてくれ」
航空本部にいた頃は、帰宅する頃には娘はいつも夢の中だった。
今はこうして、一日の終わりにその重みを感じることができる。
浴室には、薪で沸かした湯の匂いと白い湯気が立ち込めていた。
頼は小さな絢を抱えて湯船に浸かる。
絢は、頼が木片を削って作った不恰好な「飛行機」の玩具を浮かべ、キャッキャと声を上げて笑っている。
さっき結城に見せた「要塞」の冷たさと、今、掌に感じる娘の体温。
その二つが頼の中で一本の線に繋がる。合理的な計算の先にあるのは、いつだってこの理屈抜きの温もりだった。
風呂から上がると、小さな食卓には心のこもった晩飯が並んでいた。
今夜の献立は、鯖の味噌煮に、ほうれん草のお浸し、赤出汁の味噌汁、そして、ふっくらと炊き上がった白米だ。
「頼さん、新しいお家は、順調ですか?」
燈が茶碗を並べながら尋ねる。
頼は箸を動かし、鯖の身を口に運んだ。
「ああ。工程通りだ。今日、一人学生を連れて行った」
「あら。吾妻教官のお気に入りですか?」
「お気に入りなんかではないよ。ただ、少しばかり臆病な男でな。新しい家には、そいつの臆病さが必要だと思っただけさ」
頼のぶっきらぼうな言い方に、燈は「ふふっ」と優しく微笑んだ。
「その学生さんも、きっと喜ばれたでしょうね。頼さんの『怖がり』は、とても頼りになりますから」
「そうか」
頼は赤出汁を啜り、胃に落ちる温かさを噛み締めた。
窓の外では、国際情勢の緊迫を告げる号外の鈴が、遠く響いている。
だが、この小さな食卓の明かりの下だけは、頼が計算し、構築し、死守しようとしている「平和」が、確かな手応えを持って存在していた。
同じ頃。
霞が関の海軍省、その奥まった一室では、二人の将官が言葉を交わしていた。
「例の吾妻ですが。海大の教壇で、いきなり学生たちを数式で殴り倒したそうです。相変わらず、軍人というよりは計算高い会計士のようですよ」
苦笑まじりに語る山本五十六に対し、対面に座る老将、侍従長・鈴木貫太郎は、手元の報告書から顔を上げ、穏やかな、だが鋭い目を向けた。
「面白い男だね。その吾妻少佐が、目黒に自費で『要塞』を建てていると聞いた。震災を恐れ、家族を守るために、燃えない家をと」
「ええ。来月には完成するとか。その暁には、私も手土産を持って行くつもりです」
鈴木は、ゆっくりと立ち上がった。
「山本君。その新築祝いには、私も混ぜてもらえないだろうか。合理を信じ、未来を恐れる吾妻君と一度、腰を据えて話がしてみたいものだね」
暗い廊下に、鈴木の重い足音が響く。
頼の知らないところで、上大崎の「要塞」は、日本の中枢を動かす場へと姿を変えようとしていた。




