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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、俺は旧日本海軍士官になった-【異世界年間最高104位/歴史日間最高9位/チート無歴史IF】  作者: 山口灯睦
第6章 1933年-1935年3月 海軍大学校編

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勇気と自信

1933年5月


海軍大学校の講義室には、初夏の風ではなく、刺すような緊張感が停滞していた。


頼が教壇で示したのは、南方方面への架空の進出計画に基づく、輸送船団の損耗率予測だった。


「以上だ。精神論で弾薬は増えず、大和魂で重油は精製されない。質問はあるか」


頼がチョークを置くと、学生たちは不快そうに視線を逸らした。


だが、最後列で一人、震える手で計算尺を握りしめている男がいた。


結城辰雄大尉。


成績は優秀だが、声が小さく、常に何かを恐れているような物腰から、同期の間では「結城ゆうきなのに勇気がない」と揶揄されている男だ。


講義終了の合図とともに学生たちが去っていく中、結城は意を決したように教壇へ歩み寄った。


「あの、吾妻教官。お忙しいところ、申し訳ありません」


「結城か、どうした」


「昨日の講義、揚陸効率の件です。何度計算し直しても、教官の示された『三割の損失』に対し、私の計算では、、、あと五分の、上振れが出てしまうのです」


結城は、びっしりと数式で埋まったノートを差し出した。


「どこかで変数を間違えたのではないかと、昨夜から四回計算し直したのですが、やはり、こうなります。私の、私の見落としでしょうか」


その声は消え入りそうで、自信なげだ。


だが、差し出されたノートを見た頼の目は、わずかに見開かれた。


結城は、港湾クレーンの旋回速度だけでなく、「荷役作業員の疲労による、日没後の事故発生率」まで独自の係数として組み込んでいた。


「お前は、この数字に自信がないのか?」


「はい。私のような未熟者が、教官の数字に疑義を持つなど。ただ、どうしても計算が合わないのが、怖くて」


西日が差し込む講義室には、微かにチョークの粉が舞っていた。


窓の外からは、武道場で剣道を嗜む学生たちの、鋭くもどこか虚しい気合が風に乗って響いてくる。


だが、頼が目の前の青年に見出したのは、そんな勇ましさとは無縁の、鋭利な刃物のような知性の震えだった。


頼は資料を鞄に詰めると、短く言った。


「少し歩けるか?」


二人は海大の赤レンガを後にし、夕闇が迫る目黒の坂道を上大崎へと歩き始めた。


松並木を揺らす風は心地よいが、結城は教官の沈黙に耐えかねたように俯いている。


「教官。やはり、私の計算は、、、」


「自信を持てとは言わない」


頼の低く、断定的な声が坂道に響いた。結城が息を呑んで顔を上げる。


「計算に自信は不要だ。必要なのは、わずかな誤差すらも許さないという『臆病なまでの執着』だ、結城。自信満々に間違った計画を立てる勇者など、戦場にはいらん。自分の計算を疑い、夜も眠れずに何度も検算する。その臆病さこそが、最前線の兵士に届くはずの最後の一箱を守るんだ」


やがて二人は、建設中の吾妻邸の前に辿り着いた。


6月の完成を控え、外観はほぼ出来上がっているが、邸内はまだ建築の匂いが満ちている。


頼は戸惑う結城を連れて、ガランとした広間に入った。


「俺の家だ。来月にはここへ移る。この壁の厚さを見てみろ。通常の三倍はある。なぜか分かるか?」


「地震、でしょうか」


「俺が臆病だからだ。もし、自分の計算が『一分』でも甘かったら、家族を殺すことになる。結城、お前がノートに書き込んだその『迷い』は、そのまま現場の命の重みだ」


頼の声は、夜の工事現場に重く響いた。


「声を張る必要はない。だが、計算は止めるな。お前が臆病であればあるほど、この国の兵站は強固になる。君のその慎念に、俺は期待しているんだ」


結城は、黙って深く頭を下げた。


暗闇の中、軍帽の庇で隠れたその目には、生まれて初めて自分の「弱さ」を肯定された男の、静かな光が宿っていた。


窓の外では、目黒の松並木が五月の風に揺れている。


頼は一人、月光に照らされたコンクリートの壁を一度だけ愛おしそうに撫でると、慣れ親しんだ築地の官舎へと足を向けた。


書類の山や、ひっきりなしに電話が鳴り響く航空本部の夜はもうない。


海軍大学校での教職は、頼から「現場」を奪ったが、代わりに「時間」という別の資源を与えていた。


官舎の玄関を開けると、いつもの出汁の香りが鼻をくすぐった。


「ただいま」


「おかえりなさい、頼さん。今日は少しお早かったのですね」


割烹着姿の燈が、台所から顔を出す。その足元では、絢が、頼の姿を見つけて駆け寄ってくる。


「ああ。絢、よしよし。まだ風呂は入っていないな?」


「はい、ちょうど今から入れようと思っていたところです」


頼は軍服のボタンを外し、ネクタイを緩めた。 


「俺が入れる。燈は飯の仕上げをしてくれ」


航空本部にいた頃は、帰宅する頃には娘はいつも夢の中だった。


今はこうして、一日の終わりにその重みを感じることができる。


浴室には、薪で沸かした湯の匂いと白い湯気が立ち込めていた。


頼は小さな絢を抱えて湯船に浸かる。


絢は、頼が木片を削って作った不恰好な「飛行機」の玩具を浮かべ、キャッキャと声を上げて笑っている。


さっき結城に見せた「要塞」の冷たさと、今、掌に感じる娘の体温。


その二つが頼の中で一本の線に繋がる。合理的な計算の先にあるのは、いつだってこの理屈抜きの温もりだった。


風呂から上がると、小さな食卓には心のこもった晩飯が並んでいた。


今夜の献立は、鯖の味噌煮に、ほうれん草のお浸し、赤出汁の味噌汁、そして、ふっくらと炊き上がった白米だ。


「頼さん、新しいお家は、順調ですか?」


燈が茶碗を並べながら尋ねる。


頼は箸を動かし、鯖の身を口に運んだ。


「ああ。工程通りだ。今日、一人学生を連れて行った」


「あら。吾妻教官のお気に入りですか?」


「お気に入りなんかではないよ。ただ、少しばかり臆病な男でな。新しい家には、そいつの臆病さが必要だと思っただけさ」


頼のぶっきらぼうな言い方に、燈は「ふふっ」と優しく微笑んだ。


「その学生さんも、きっと喜ばれたでしょうね。頼さんの『怖がり』は、とても頼りになりますから」


「そうか」


頼は赤出汁を啜り、胃に落ちる温かさを噛み締めた。


窓の外では、国際情勢の緊迫を告げる号外の鈴が、遠く響いている。


だが、この小さな食卓の明かりの下だけは、頼が計算し、構築し、死守しようとしている「平和」が、確かな手応えを持って存在していた。


同じ頃。


霞が関の海軍省、その奥まった一室では、二人の将官が言葉を交わしていた。


「例の吾妻ですが。海大の教壇で、いきなり学生たちを数式で殴り倒したそうです。相変わらず、軍人というよりは計算高い会計士のようですよ」


苦笑まじりに語る山本五十六に対し、対面に座る老将、侍従長・鈴木貫太郎は、手元の報告書から顔を上げ、穏やかな、だが鋭い目を向けた。


「面白い男だね。その吾妻少佐が、目黒に自費で『要塞』を建てていると聞いた。震災を恐れ、家族を守るために、燃えない家をと」


「ええ。来月には完成するとか。その暁には、私も手土産を持って行くつもりです」


鈴木は、ゆっくりと立ち上がった。


「山本君。その新築祝いには、私も混ぜてもらえないだろうか。合理を信じ、未来を恐れる吾妻君と一度、腰を据えて話がしてみたいものだね」


暗い廊下に、鈴木の重い足音が響く。


頼の知らないところで、上大崎の「要塞」は、日本の中枢を動かす場へと姿を変えようとしていた。




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