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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第5章 1930-

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地上の城と、砂上の始まり

1933年2月


上大崎の更地には、四方に竹が立てられ、白い注連縄しめなわが冬の北風に震えていた。


空は抜けるように青いが、踏みしめる土からは霜柱のざらついた感触が伝わってくる。


「これより、地鎮の儀を執り行います」


神主の祝詞が、静まり返った高台に響く。


参列者は、吾妻頼と、厚手のコートに身を包んだ燈、そして彼女の胸で眠る幼い絢の三人だけだった。


頼はくわを手に取り、凍てついた土の山に向き合った。


これからここに打ち込むのは、単なる建物の杭ではない、いわば「歴史のくさび」なのである。


「エイ!」


短く、気合の入った発声とともに鍬を下ろす。


手に伝わる硬い土の抵抗は、これから彼が挑む時代の壁そのもののようだった。


儀式が終わり、神主を見送ったあと、頼は庭になる予定の北東の角をじっと見つめ、不意に口を開いた。


「燈。家ができたら、あそこに桜を植えようと思っているんだ」


頼のその提案に、燈は胸の中の絢をそっと抱き直し、頼の隣に並んだ。


「良いですね。この家と一緒に、家族が同じ時間をかけて、ここに根を張っていく。ずっと、同じ景色を見ていられますね」


「ああ。家と木は、俺たちがここにいた証拠になる。ずっと、俺たちの存在の証拠だよ」


頼は足元の土を一度だけ強く踏みしめた。それ以上、二人は何も言わなかった。


ただ、冬の冷たい風の中で、家族の「拠点」を築く覚悟だけが静かに共有されていた。


翌月から、その土地には住宅建築としては異様な光景が広がることとなった。


深い掘削の末に、頑強な鉄筋が林立し、巨大な木製の型枠が組まれていく。


通りかかる近隣の住民は、


「海軍の火薬庫でも作っているのか」


と遠巻きに眺めていた。


「吾妻さん、この配筋密度、戦艦の隔壁並みですよ」


現場監督が呆れたように笑うが、頼は図面を手に、結束線のわずかな緩みさえ許さなかった。


「これでいい。この厚みが、家族の生死を分ける日がいずれ来る」


コンクリートの打設が始まると、頼は自らミキサーの配合をチェックした。


冷たい冬空の下、灰色の液体が型枠に吸い込まれていく。


同時に、航空本部での引継ぎも佳境を迎えていた。


頼のデスクの周りには、連日、久保田をはじめとする若手将校や三菱の技師たちが集まっていた。


「久保田少佐。航空機の量産化とは、工場の熟練度に頼ることではなく、『誰が作っても同じ性能が出る』という図面の力こそが兵站の要です」


頼は、数百枚に及ぶ「共通規格部品表」と「生産工程指示書」を久保田に託した。


「吾妻さん、あなたは海大へ行っても、まだ『現場』を動かすつもりですね」


久保田は、その膨大な資料の重みに、頼の執念を感じ取っていた。


「現場を離れるからこそ、システムを遺すんです。俺がいなくても、この国が合理的な『生産の怪物』になれるように」


3月の末、頼は航空本部の私物を鞄に詰めた。


去り際、自身のデスクを一度だけ撫でた。指先に残る微かな油の匂いは、彼がこの場所で戦った証だった。


上大崎の自宅は、足場が外され、その全容を現した。


松並木の緑に映える、落ち着いた灰白色の低層建築。無機質ながらも、どこか凛とした佇まいは、地主が危惧した「ビルヂング」の威圧感ではなく、むしろ静かな守護者のようでもあった。


燈と幼い絢を連れて新居に入った夜、頼は厚いコンクリート壁に手を触れ、その冷たい堅実さに深く息を吐いた。


そして4月


頼は真っさらな軍服に身を包み、目黒の海軍大学校の門を潜った。


講堂には、各部隊から選りすぐられた「甲種学生」たちが、刺すような視線を壇上へ向けていた。壇上に立った頼は、挨拶もそこそこに、一本のチョークを手に取った。


黒板に大きく書き殴ったのは、戦術でも精神論でもなく、一組の「数式」だった。


「これより講義を始める。諸君、まず最初にこの数字の意味を答えられる者はいるか」


最前列の学生が、不快そうに声を上げた。


「吾妻教官、我々がここへ学びに来たのは、勝つための戦術です。算術ではありません」


頼は冷たい眼差しでその学生を見据え、チョークを静かに置いた。


「その『戦術』とやらで、燃料の枯渇を補えるというのなら、今すぐこの教室から去れ。私が教えるのは、勝つための方法ではない。『負けないための絶対条件』だ」


頼は、机の上に置かれていた巨大な演習図面を、無造作に広げた。


「では、この華々しい図面を描いた者に聞こう。この艦隊が第一根拠地から東方三千海里。その長躯進出を成し遂げ、かつ現地で三日間の戦闘を継続するのに必要な油槽船タンカーの隻数。これらを一分以内に算出せよ」


静まり返る講堂。


「出せないか? ならば、君たちのこの図面はただの『空想』だ。物流ロジスティクスを無視した戦術など、戦地へ向かう兵士への冒涜にすぎん」


頼は、再びチョークを手に取った。


「諸君。これからの二年間、私は君たちに『勇気』は教えない。代わりに、一キロの物資を届けるための『計算』を叩き込む。それが、この国を救う唯一の歩みだからだ」


チョークの粉が舞う中、頼の「教育という名の反撃」が、ついに火蓋を切ったのである。

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