礎(いしずえ)
1933年1月
海軍大学校への転属に伴い、慣れ親しんだ築地の官舎を離れることになった頼は、新たな居を「借り物」ではなく、自らの手で築くことを決めていた。
東京を襲った寒波は、目黒の高台に鋭い爪痕を残している。
土地の契約は、地元の地主が構える古めかしい邸宅の応接間で行われた。
重厚な黒檀の机を挟み、地主と仲介人が並んで座っている。
部屋の隅では火鉢がパチリと音を立て、鉄瓶から白い湯気が立ち上っていた。
「では、こちらが契約書になります」
仲介人が差し出したのは、筆書きで丁寧に綴じられた和綴じの書類だった。
頼はそれを手に取り、一条ずつ指でなぞりながら確認していく。
エンジニア特有の、わずかな瑕疵も見逃さない冷徹な目つきに、地主は少し気圧されたように茶を啜った。
「吾妻さん、あそこは良い土地ですよ。日当たりもいいし、通りに面した松並木の緑も美しい。ぜひ、あの景色に馴染むような、風情ある和風のお宅を建てなさい。それが一番、目黒の空に似合いますよ」
地主の穏やかな勧めに、頼は申し訳なさそうに、だがはっきりとした口調で微笑んだ。
「お心遣い、ありがとうございます。あの松並木は、私も気に入っております。ただ、建物については鉄筋コンクリートで考えているのです」
一瞬、部屋の空気が止まった。仲介人が驚いたように口を挟む。
「鉄筋コンクリート? ビルヂングですか?吾妻さん、それではこの辺りの景観から少し浮いてしまうのでは、、、?」
「ええ、そうかもしれません」
頼は相手を否定せず、静かに図面を指し示した。
「ですが、地震や火事への備えとして、これからの日本に最も必要なのは『壊れない家』だと思うのです。外壁の質感や色調を工夫して、あの松並木の緑をより引き立てるような、落ち着いた佇まいにしたいと考えています。ご近所の方々にも、『あんなに頑丈な家が隣なら安心だ』と思って頂けるような、そんな拠点にしたいのです」
「安心、ですか、、、」
地主は頼の、静かだが芯の通った言葉を噛み締めるように頷いた。
単なるビルを建てるのではない。
家族を守り、周囲にも安心を与える、そんな家を造るのだという頼の誠実さが、その場を温かく包み込んだ。
頼は、吾妻家の蓄えから捻出した手付け金の分厚い包みを、迷いなく机に置いた。
航空本部での激務の対価として積み上げてきた、彼なりのけじめの金だ。
熱田の母・静から届いた「父の遺産を使いなさい」という手紙の重みは、この契約の後に、本格的な資材発注の段階で受け入れるつもりだった。
(回想:1932年12月の官舎)
深夜、小さな電球の下で、頼は燈に設計図の素案を見せていた。
「鉄筋コンクリート、ですか」
図面を覗き込んだ燈が、不思議そうに瞬きをした。
「ああ。震災を経験したこの街で、家族を確実に守るにはこれしかない。……それと、燈。俺は、この家を絶対に焼かせたくないんだ。10年後も、20年後も、君と子供たちと、俺たち家族がこの庭で笑っていられるように」
頼の言葉には、どこか祈りに似た切実さが混じっていた。
「頼さん。あなたがそう決めたのなら、私は異存ありません。……あなたが、この先の時代をどれほど厳しく見積もっているのか、私には分かりますから」
燈は、頼の手の上にそっと自分の手を重ねた。夫が海大へ「現場剥奪」という形で転属させられた悔しさを、この『燃えない家』を建てるという決意に昇華させていることを、彼女は察していた。
(回想終わり)
和紙の契約書に、朱肉の赤が鮮やかに沈む。
この印影こそが、歴史という荒波に打ち込む最初の「杭」だった。
契約を終え、屋敷を出た頼は、一人で上大崎の更地を訪れた。
霜柱がざらりと潰れる音を聞きながら、冷たい冬の空を見上げる。
翌日、航空本部のデスクに向かった頼は、久保田に最後の手渡すべき資料を整理していた。
「吾妻さん、まだいたんですか」
「久保田少佐、あなたに渡すバトンに、わずかなヒビも残したくない」
「相変わらずですね。ですが、あなたの『規格』は、すでに現場の職人たちの血肉になりつつある」
久保田の言葉に、頼は短く頷いた。
現場を去る寂しさはない。
ここで蒔いた種は、いつか必ず巨木となってこの国を支えるはずだ。
夜、官舎の静まり返った書斎で、頼は一本のチョークを手に取った。
傍らには、4月から始まる海軍大学校での講義に向けて、既に書き込みで埋まり始めた一冊のノートがある。
窓の外では、国際連盟脱退を報じる号外の声が遠く響いている。
世界が非合理な孤立へと突き進む中、頼は真っ白な講義案のノートを開いた。
「始めようか」
指先に残っていた三菱の油の匂いは、もうない。
これからは、海軍のエリートたちの頭脳を「合理」という名の規格に染め上げる戦いが始まる。




