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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第5章 1930-

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時速4キロの牛車

1932年5月下旬


名古屋駅のホームに降り立った頼と久保田少佐を待っていたのは、五月とは思えぬ汗ばむような熱気と、五・一五事件の余韻が残る刺々しい空気だった。駅構内の至る所に憲兵が立ち、鋭い眼光を道行く人々に向けている。


「吾妻少佐、不穏ですね。東京も騒がしかったですが、地方都市の方がかえって神経質になっているようだ」


久保田が荷物を持ち直し、低く囁いた。


頼は無言で頷き、駅舎の外へと踏み出す。


「久保田少佐、市電を乗り継ぎます」


二人は笹島付近の停留所から、名古屋市電に乗り込んだ。


ガタゴトと鳴る鉄の音。


風は最初、街の匂いを運んでいた。


だが市電が南へ向かうにつれ、その風は油と鉄を含み始める。


熱田を通り過ぎて港区へと近づくにつれ、車窓の景色は住宅地から巨大な工場群へと塗り替えられていく。


「吾妻少佐、あれを見て下さい」


久保田が窓の外を指差した。


頼の目が、わずかに細められる。


工場の門から出てきたのは、最新鋭の航空機部品を収めたであろう巨大な木箱、、、それを引いているのは、ゆっくりと歩を進める「牛車」の列だった。


「三菱内燃機製造株式会社 名古屋製作所、俺たち地元の人間は大江の三菱で通ってる。日本屈指の技術力を誇る工場が、完成品の輸送を牛の歩みに委ねているのか」


頼の言葉には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。


工場内では一分一秒を削り、一〇〇分の一ミリの精度を追い求めておきながら、一歩外へ出れば中世のような物流に依存している。


その「停滞」が、頼にとっては耐え難い無駄に映った。


「彼らにとっては、これが『当たり前』なのです。各務原の飛行場まで不眠不休で一昼夜かけて牛車で運ぶ。それがどれほど機体の稼働率を下げているか、数字で突きつけなければ理解しないでしょう」


久保田が静かに同調する。


市電の終点に近い大江で降りると、そこには重厚な正門が立ちはだかっていた。


「止まれ。海軍省の方か。本日の面会予定は、、、」


正門の脇から、腕章をつけた守衛が現れ二人を遮ろうとする。


だが、頼は止まらなかった。


彼は鞄から、あの五・一五事件の混沌の中で「強制承認」させた、朱肉の生々しい規約書類を突き出した。


「航空本部特命、吾妻少佐だ。面会の約束ではない。これは『監査』だ。海軍省が新たに定めた全部品規格化規約に基づき、本日ただいまより、貴工場の全ラインを精査する」


海軍省の正式な判と、頼の圧力。


守衛はその迫力に気圧され、道を開けた。


頼は、久保田と共に三菱の敷地内へと足を踏み入れた。


行く手に広がるのは、中島飛行機をも凌ぐ巨大な「城塞」だ。


だが、頼の脳裏にあるのは故郷への懐かしさではない。


守衛を背に、頼と久保田が踏み込んだ大江工場の内部は、静謐なまでの規律に支配されていた。


中島飛行機の荒々しい活気とは対照的に、ここは巨大な資本と国家の期待が作り上げた、「エリートの牙城」だ。


二人が向かったのは、工場の心臓部である設計室だった。


そこには、純白の作業着に身を包み、計算尺を静かに滑らせる若き技師たちが並んでいる。


「海軍の吾妻少佐です。技師長への面会を願います」


久保田の言葉を遮るように、奥から一人の男が歩み寄ってきた。


三菱の設計陣を束ねる初老の技師長だ。


彼は頼が差し出した「規格統一規約」を一瞥すると、薄い唇を歪めた。


「吾妻少佐。我々は、一機でも多くの、そして一キロでも速い機体を作るために命を削っている。それを、他社なかじまと同じネジを使え、同じ図面を引けだと? それは技術の『平均化』であり、即ち『退歩』だ」


技師長の言葉に、周囲の技師たちが一斉に視線を向けた。


その瞳には、選民意識に近い誇りが宿っている。


だが、頼は表情一つ変えず、窓の外に目を向けた。


そこでは、先ほど見た牛車が、誇らしげに積み上げられた最新機体の主翼を揺らしながら、泥濘んだ道をのろのろと進んでいる。


「技師長。あなたが『退歩』を語るなら、まずはあの牛車を止めてからにして頂きたい」


頼の低く鋭い声が、設計室の空気を切り裂いた。


「この大江で一分一秒を削り出し、極限の性能を求めた結果が、あの時速四キロの配送か。あなたたちが守っているのは『技術』ではない。工場という鳥籠の中だけの『自己満足』だ。ネジ一本、プラグ一個の共通化を拒むその高慢さが、戦地で稼働できない機体の山を築いていることに、いつ気づくつもりだ」


頼は机を指先で叩き、感情無く告げた。


「これは提案ではない。これに従わぬメーカーの機体は、今後、海軍の正規採用リストから除外される。計算尺を動かす前に、まずはこの『数字』を呑み込んでいただこうか」


設計室に、重苦しい沈黙が降りた。


頼が突きつけたのは技術論ではなく、冷酷なまでの「組織の生存戦略」だった。


久保田は、頼の背中に漂う凄まじいまでの「現場の怒り」を感じながら、静かに眼鏡を拭き直した。


「さて。監査を始めましょうか。時間は一秒も無駄にできませんので」


日本の航空産業の心臓部、三菱との「終戦」に向けた戦いが、ここ名古屋で幕を開けた。

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