銃声と自立
1932年5月15日
初夏の陽光が官舎の縁側に白い四角形を描き、頼は休日を利用して持ち帰った各メーカーの進捗表を広げていた。
「……あ、あ……うぅ」
背後で、畳を叩くような小さな音がした。
頼が振り返ると、そこには十一ヶ月になった絢がいた。
彼女は文机の縁を小さな手で掴み、ぷるぷると震える足に力を込めている。重心がゆっくりと上がり、膝が伸びる。
ふらつきながらも、彼女は自分の足だけで畳の上に直立した。
「燈、絢が立ったぞ」
奥から燈が駆け寄ってくる。
その小さな「自立」に夫婦で目を細めた、その時だった。
遠く、官邸や官庁が並ぶ方角から、低く乾いた音が数発、空気を震わせて届いた。
ただの騒音ではない。規律ある日常に、無理やり穴を空けるような暴力的な音だった。
頼は無言で立ち上がり、玄関へ向かおうとした。
だが、その袖を燈の指先が強く掴んだ。
「頼さん、行かないでください」
燈の声は低かったが、そこには頑なな拒絶があった。
外では、何かが致命的に壊れ始めている。
海軍少佐という立場を考えれば、即座に本部に駆けつけるのが正解なのだろう。
だが、頼は止まった。
(今、外に出ても何一つ制御できない)
何が起きたかも分からぬまま本部に飛び込めば、実務能力のない将校たちの興奮と混乱に巻き込まれ、貴重な時間を浪費するだけだ。
「分かった。今日は一緒にいるよ」
頼は軍服の上着を脱ぎ、再び文机の前に座った。
国家という巨大な機構が軋みをあげていても、明日にはまた「物」を動かさなければならない。
翌5月16日
登庁した頼を待っていたのは、昨日までの日常が嘘のような、異様な熱を帯びた混沌だった。
「吾妻、聞いたか! ついにやったぞ!」
廊下では、血気盛んな若手将校たちが顔を紅潮させ、「日本は生まれ変わるぞ」と無責任な喝采を上げている。
その喧騒を抜けた事務室では、対照的に青ざめた事務官たちが、承認ルートの消失により機能不全に陥っていた。
そこへ、一人の男が頼の元へ歩み寄ってきた。
久保田少佐だ。彼は混乱する廊下を一瞥し、低く冷めた声で言った。
「ひどいものですね、吾妻少佐。時計の針を止めて喜んでいる連中ばかりだ」
「ええ。ですが久保田少佐、これはチャンスです」
頼は鞄から、これまで保守派に棚上げにされていた航空機部品の『完全規格化』に関する改訂案を取り出した。
「これを、今から通します」
「この混乱に乗じてですか? 悪魔のような発想だ」
久保田は苦笑したが、その目は頼と同じく、先を見据えていた。
「いいでしょう。事務官たちの意識を削ぐ役は、私が引き受けます」
頼は、パニック状態で判子を機械的に突き続けている担当官の机へ歩み寄った。
久保田が横から「昨日の事件の影響で、資材供給ラインの法的不備が指摘されています。至急この確認を!」と、もっともらしい「ノイズ」を被せる。
「え、ええい、分かった! 今はそれどころじゃないんだ、勝手にしてくれ!」
ガチャン、と呆気なく朱肉の跡が残る。
平時であれば数週間、いや、それ以上の議論を要したであろう重要な規約が、わずか数秒で公式なものとなった。
頼は無表情のまま、その書類を回収した。
「助かります。では、私は現場へ戻ります」
廊下へ出ると、まだ若手たちが万歳三唱を繰り返していた。
彼らが「歴史を変えた」と酔いしれている間に、頼と久保田は土台を書き換えていた。
その足で航空本部長室の前を通りかかった時、開いた扉の奥に、山本五十六の姿が見えた。
山本は、狂乱する部下たちの声に耳を貸すこともなく、たった一人で地図と書類を見つめていた。
山本がふと顔を上げ、頼と視線が重なった。
山本は何も言わなかった。
ただ、軍帽の庇の下にある鋭い眼光が、頼が手にしている「書き換えられた規約」を射抜いた。
(熱狂に食いつぶされる暇はない。明日には、中島にこの規格を届けなければならないんだ)
頼の背中を、久保田が静かに追う。
「吾妻少佐、一つ聞いてもいいですか。あなたは昨夜、何を考えていました?」
「娘が初めて立ったことを、考えていましたよ」
頼の答えに、久保田は驚いたように目を見開き、やがて短く笑った。
「なるほど。やはり、あなたには敵いませんね」
銃声が止んだ後にこそ、その本質を現す戦場。
一分一秒を削り出し、狂気の中でも「正解」を届けし続ける。
二人の戦いは、この国の混迷をあざ笑うかのように加速している。




