湯気と黒い爪
中島飛行機での「戦闘」を終えた頼が、深夜の官舎へ帰り着いたのは、日付が変わる頃だった。
静まり返った築地の夜風が、作業着に染み付いた油の匂いを冷たく撫でる。
頼は玄関の引き戸を、音を立てないよう慎重に開けた。
土間に足を踏み入れた瞬間、微かに石鹸の匂いと、陽だまりのような赤ん坊特有の甘い匂いが漂ってきた。
工場で浴び続けていた鉄を削る甲高い音や、亀吉たちの怒号とは、あまりにも対極にある「生」の匂いだ。
「おかえりなさい、頼さん。あら」
燈が、立ち上がって目を丸くした。
そこに立っていたのは、海軍少佐という仰々しい肩書きからは想像もつかない、油まみれ泥だらけの男だった。
「現場を少し、整理してきた。遅くなってすまない」
頼は、燈が差し出した手拭いを受け取ろうとして、ふと自分の手を止めた。
指先は黒く汚れ、爪の間には鉄粉が食い込んでいる。燈の白い手に触れれば、それだけで彼女の日常を汚してしまうような気がした。頼は一歩、土間の奥へ下がる。
その時、奥の畳の上で、もぞもぞと動く小さな影があった。
前年に生まれたばかりの絢だ。
生後九ヶ月。
ようやくはいはいが形になり始めた彼女は、父親の気配を察したのか、不器用な動きでこちらへ向かってくる。
「あぅ、あー、、、ぶぅ」
まだ言葉にはならないが、再会を喜ぶような、透明な高い声。
頼は思わず膝をつき、娘を抱き上げようとして、再び動きを止めた。
過酷な配送センターで、壊れやすい荷物を扱う時よりも、ずっと慎重に、臆病に。
(この手で、触れるわけにはいかないな)
頼の脳裏に、かつての世界の光景がよぎる。
どれだけ効率を上げても、どれだけシステムを完璧にアップデートしても、結局はその「荷物」が誰かの幸せに届かなければ意味がない。
今、目の前で無邪気に笑い、泥だらけの父に手を伸ばすこの小さな命こそが、頼にとっての「配送」の終着点なのだ。
「頼さん、お風呂が沸いていますよ。絢を抱っこするのは、綺麗になってからですね」
燈が、すべてを察したように微笑む。
彼女は頼の背中にそっと手を添え、風呂場へと促した。
「絢、お父さんは今、お仕事に行っていたのよ。だから少しだけ待っていましょうね」
頼は石鹸を手に取り、熱い湯の中で自分の手を執拗に洗った。
赤く腫れ、皮膚の隙間にまで入り込んだ油を、何度も、何度も。
老職人の、岩のような頑固な手。
頼が床を拭き、機械を慈しんだ、泥まみれの手。
そして、今にも壊れそうなほど柔らかい、絢の小さな手。
風呂から上がり、清潔な浴衣に着替えた頼は、ようやく畳の上に座った。
待ちかねていた絢が、待機していた小さな機関車のように頼の膝へ突進してくる。
頼は今度こそ、その柔らかな体を抱き上げた。軽い。あまりにも軽い命の重みが、腕を通じて胸に響く。
「燈。中島の現場が変わったよ」
「ええ。頼さんの顔を見れば分かります」
燈は茶を淹れながら、静かに言った。
「部品が揃い、機械が直れば、飛行機は落ちなくなる。落ちなければ、搭乗員の家族が泣かずに済む。そんな当たり前のことのために、すべての『無駄』を削ぎ落とすつもりだ。それが、どれほど非情だと言われようとな」
頼の腕の中で、絢が指をしゃぶりながら、頼の浴衣の襟をぎゅっと掴んだ。
その小さな掌の温もりを、頼は忘れないよう、深く記憶に刻み込む。
翌朝。
海軍航空本部に登庁した頼の元に、一通の電文が届いた。
中島飛行機・武蔵野製作所。
全ラインの稼働率、前月比百三十パーセント。
不良品発生率、わずか五分の一に激減。
報告書を読み終えた頼が、一度だけ短く息を吐き、机の上の計算尺を手に取ったその時、ノックの音と共に久保田少佐が入ってきた。
「吾妻少佐。中島からの報告、ご覧になりましたか」
久保田は頼の机の前に立ち、眼鏡の奥の目を細めた。
「ええ。数字は嘘をつきませんね」
「全くです。ですが、現場からは数字以上の報告が来ていますよ。源造という男が『少佐の拭き方は本物だった』と、若手連中を叩き直しているそうです」
久保田はふと、頼の指先に目をやった。
昨日あれほど熱心に洗ったはずなのに、爪の端にはまだ微かに黒い痕跡が残っている。
「その指、まだ油の匂いがしますね」
「洗っても落ちないんだ。執念深いな、中島の油は」
頼の苦笑いに、久保田も微笑み返した。
「いいえ。それはあなたが現場を『動かした』証拠ですよ。さて、次は名古屋ですね。三菱の心臓部だ」
頼の声は、もはや迷いのない、鋼の響きを帯びていた。
「ああ。行こう、久保田少佐」
「はい。供に行くつもりです」
一分一秒を削り出す、頼と久保田の戦いはまだ始まったばかりだった。




