部品
満州事変の熱狂は、冷めるどころか冬の寒さを溶かすほどに激しさを増していた。
年明けの東京を白く染める雪を眺めながら、頼は艦政本部の自席で、淡々と私物を整理していた。
この一年、頼は艦政本部と航空本部を兼務し、過酷な掛け持ちを完遂し続けてきた。
藤井たちの「どんぶり勘定」を数字のメスで切り刻み、同時に航空兵站の土台を築く。
その凄まじい働きぶりは、艦政本部の主流派にとってはもはや恐怖ですらあった。
自席を去る頼の背中には、惜別ではなく「ようやくあの疫病神がいなくなる」という、異物を見送るような薄ら寒い安堵の視線が突き刺さっていた。
しかし頼の意識は、すでにその先へと向いていた。
航空本部の一室。
山本の前に立った頼は、無言で一通の書状を差し出した。
「……艦政本部の転籍願か。艦本では、期待以上の働きだった。藤井大佐達はいま、予算の蛇口を君に握られて、陸軍への対抗心どころではないようだな」
「閣下の指示通りに動いたまでです。ですが……」
頼は、窓の外の雪に視線を落とした。
「艦政本部での私の役目は終わりました。これ以上、あの淀んだ空気の中にいては、私の『感覚』が鈍ります。閣下、上海が動きます」
山本は手元にある海軍省の機密電文に目をやった。上海での緊張は、爆発寸前だ。
「ああ。航空隊が本格的に実戦に投入される。名誉と戦果を欲しがる連中は、我先にと空を飛ぶだろう」
「それでは足りないのです、閣下。以前、閣下は仰いました。私のために『政治的な盾になる』と。その言葉、今こそ使わせていただきたい。上海の現場へ、航空隊の『循環』を整えに行きます。閣下の下で、正式に航空本部の人間として」
山本は椅子の背にもたれ、頼の目をじっと見つめた。
「……改めて聞こう。吾妻、お前は私の『忠実な部下』として、私の背中を守る盾になるつもりか? それとも……」
山本は身を乗り出し、獲物を狙うような目で頼を射抜いた。
「お前が進める『改革』のために、私という『階級』を、障害を排除するための武器として振り回すつもりか?」
頼は、表情一つ変えずに答えた。
「効率的に動く方を、選ぶまでです。閣下。……私という『部品』が最も摩擦なく動き、この国の壊れた歯車を回し切れるのなら、盾でも矛でも、あるいは海軍少将という名の巨大な演算機でも、使えるものは全て使わせていただきます」
山本は、一瞬の沈黙の後、爆発したように笑った。
「ははは! 面白い。久保田が惚れ込むわけだ。いいだろう、ならば私を好きに動かしてみせろ。ただし、お前の言う『循環』が滞った時、真っ先にその演算機に叩き潰されるのは、他でもないお前自身だぞ」
「……心得ています。その上でまずは、上海の『荷詰まり』から片付けます」
頼はそう締めくくったが、部屋を出ようとして、わずかに足を止めた。
その背中が、これまでに見せたことのない微かな「重み」を帯びているのを、山本は見逃さなかった。
「……閣下。上海へ発つ前に、一つだけ、公務とは無関係な我儘を」
「ほう。お前から私情が出るとは珍しいな。言ってみろ」
頼は振り返らず、窓の外の雪を見つめたまま、ポツリと漏らした。
「久保田少佐を、私と同行させてください。……彼の、あの救いようのない技術屋としての『頑固さ』が、今の私には……必要なのです」
声が、わずかに震えていた。
海軍という巨大な闇を一人で切り裂き、全てを背負い込もうとする孤独。
その限界が、ほんの少しだけ滲み出た瞬間だった。
(……少し、無茶をさせすぎたか)
山本は、頼のまだ新しい少佐の階級章と、その指先に残るインクの汚れを黙って見つめた。
そういえば、吾妻にはまだ生まれたばかりの赤ん坊と、若く献身的な妻がいたはずだ。
「……よかろう。久保田の辞令も同時に出しておく。あの偏屈者がお前の『重石』になるというなら、安い投資だ」
山本はわざと突き放すような口調で続け、手元の書類に目を戻した。
「上海へ行く前に、一度、家に帰っておけ。久保田も同じだ。身辺整理を終えてから、一月後に現地で合流しろ。いいな」
「……感謝いたします、閣下」
頼は深く一礼し、執務室を去った。
扉が閉まった後、山本は熱い茶を啜った。
「計算機、か。……中身はまだ、ただの若造じゃないか」
山本の独り言は、冬の冷たい空気の中に、温かな苦笑いとなって溶けていった。




