産声と、その足音
藤井大佐の画策したこじつけの査問が、山本の剛腕によって強引に幕を引かれた後、頼を待っていたのは、華やかな称賛ではなく、底なしの書類の山だった。
不問に付されたとはいえ、省内の空気は氷のように冷え切っている。
山本の威光を背景に「不穏な動き」を封じられた連中の、無言の敵意。それらがすべて、誰からも顧みられない膨大な事務作業となって頼の机に積み上げられた。
航空本部と艦政本部の兼務。
それは、海軍という巨大な組織の「神経系」に直接触れることを意味していた。
頼の指先は、常に万年筆のインクで黒く汚れ、計算尺を滑らせる摩擦で指の腹は硬く変質していった。
彼が取り組んでいたのは、ネジ一本、ボルト一個の規格に至るまでの徹底的な「整理」である。
「吾妻少佐、また陸軍との調整案を跳ね除けられたそうですね。無駄なことを」
同僚たちの冷笑を背に、頼は黙々と図面を引いた。
深夜の執務室。
頼はふと、自分の指を見つめる。
インクで汚れ、ペンだこができた無骨な指。
この指が引く一本の線が、いつか数千人の命を左右する。
その重圧を、彼は計算尺の冷たい感触に預けていた。
頼は、藤井らとの闘争が激化する嵐の中で、熱田の実家へ宛てた一通の手紙を思い出していた。
『一月の激務を乗り越えれば、また少し、落ち着いて便りも書けるかと思います』そう書き記してから、数ヶ月が過ぎようとしていた。
誰とも言葉を交わさず、ただ数字だけを相手にする日々。
頼の精神は、磨り減った計算尺のカーソルのように、いつ壊れてもおかしくなかった。
だが、官舎に帰り、燈の膨らんだお腹に耳を当て、まだ見ぬ命の鼓動を聴くときだけ、彼は「吾妻少佐」から、ただの「一人の男」に戻ることができた。
そんな、指先の感覚さえ麻痺するような激務の日々の中で、その日は訪れた。
東京の街を湿り気を帯びた梅雨の雨が叩く夜、吾妻家に、歴史の喧騒を忘れさせるような高い産声が響き渡った。
官舎の廊下でじっとその時を待っていた頼は、産婆に促されて寝室に入った。
蚊帳の中に横たわる燈の腕に抱かれていたのは、驚くほど小さな、しかし力強く手足を動かす赤ん坊だった。
「女の子ですよ、頼さん」
疲労困憊しながらも、燈の顔には神々しいまでの安らぎが宿っていた。
頼は、震える手でその小さな指に触れた。
頼が自分の大きな指を差し出すと、絢がそれを無意識にギュッと握り返す。
触れれば壊れてしまいそうな柔らかさの中に、確かに脈打つ熱い鼓動。
「絢。ようこそ、絢」
その名を呼んだ瞬間、頼の胸を貫いたのは、言いようのない愛おしさと、背筋が凍るような戦慄だった。
この子が成人する頃、この国は、この世界は、一体どうなっているのか。
頼は、我が子の重みを両腕に感じながら、暗闇の中で一人、見えない敵に対して誓った。
この命だけは、何があっても、地獄の業火の中に放り込ませはしない、と。
翌朝、頼は半年間の沈黙を詫びるように、実家へ短い葉書を認めた。
『お母さん、久しく音沙汰をせず申し訳ありません。省内での職務が立て込み、ようやく一息ついた今朝、約束の紫陽花の雨の中で長女が産声を上げました。絢と名付けました。母子ともに健やかです』
それから数日後、熱田の母からは歓喜に震える手紙が、そして燈の母である恵子からは、初孫のためにと、一針一針丁寧に縫われた柔らかな産着が届いた。
頼は、深夜の灯火の下でその産着を手に取り、そこに宿る女たちの祈りのような温かさを指先で確かめた。
家族という絆が、殺伐とした戦場のような日々の中で、唯一の、そして絶対の錨となっていた。
しかし、季節が移ろい、秋風が立ち始めた頃、頼の懸念は最悪の形で現実のものとなった。
その日の朝、頼は官舎の畳の上で、燈と共に絢の成長を確かめていた。
「あ、見てください、頼さん。首が、しっかりしてきました」
燈の弾んだ声に促され、頼はうつ伏せになった絢をそっと見つめた。
生後三ヶ月。
ふらついていた細い首が、自力でぐいと持ち上がる。頼が指を差し出すと、絢は顔を上げ、焦点を合わせるように父を見つめて、無垢な笑みをこぼした。
頼は、産着を贈ってくれた恵子と実家の母への礼状を認めるために筆を執った。
『お義母さん、お母さん。お二人から頂いた過分な御祝辞と産着に、まとめての御礼となりますこと、どうかお許しください。絢は生後三ヶ月を迎え、首もしっかりとして参りました。私が指を差し出すと、それを力強く握り返すほどです。頂いた産着も、絢によく似合っております。燈もようやく体力を取り戻し、娘の成長を何よりの楽しみに過ごしております』
頼の指先が、絢の柔らかな頬を撫でる。
(この子が自分の意志で、前を見ようとしている)
その小さな生命力が、頼には尊く、そして恐しかった。
この無垢な首が、いつか鉄の規律に押し潰され、あるいは火の粉の中に散るような未来を、自分は絶対に選ばせない。
だが、そのわずかな平穏を切り裂くように、運命の歯車は冷酷に回り始めた。
九月十八日、奉天近郊、柳条湖。関東軍による独走、満州事変の勃発である。
翌日の海軍省は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
廊下を走る足音、鳴り止まない電話、そして「陸軍に遅れをとるな」と息巻く士官たちの昂揚した声。頼は、その狂乱の渦から隔絶されたかのように、自席で一枚の号外を眺めていた。
(始まったか。止められなかった。いや、最初から止める術などなかった)
事変そのものは海軍の範疇ではない。
それは頼の計算尺が届かない場所で、歴史という巨大な歯車が、音を立てて狂い始めた合図だった。
この日を境に、国際連盟からの孤立、そして対米英戦へのカウントダウンを刻む不協和音が、日本中に鳴り響き始める。
「吾妻少佐。おや、顔色が優れませんな。ご自慢の計算尺でも、この事変の熱狂までは予測できなかったかな?」
振り返ると、藤井大佐が外套を翻して立っていた。
その瞳には、頼を精神的に追い詰めようとする陰湿な光が宿っている。
「君が心血を注いだ『予算の効率化』も、この号外一枚でゴミ屑同然だ。時代は『計算』ではなく『勢い』を求めている。君の緻密な分析とやらは、所詮は平時の数字遊びに過ぎん。戦時という巨大な波の前には、誰も見向きもしなくなるでしょうね」
藤井は勝ち誇ったように笑うと、頼の返答を待たずに立ち去った。
周囲の士官たちも、頼を冷やかな目で一瞥し、喧騒の中へと戻っていく。
頼は一人、静かに号外を畳んだ。藤井の言う通り、これからの海軍は「景気のいい数字」と「根拠のない勢い」に支配されるだろう。だが、だからこそ頼は確信していた。
(逆だ。熱狂に浮かされ、資源を浪費し、生産性を無視した戦いなど、数年と持たない。数字遊びだと笑いたければ笑うがいい。俺はその『遊び』で、お前たちが食い潰そうとしているこの国の寿命を、一日でも長く延ばしてみせる)
頼は再び、机の上に広げた「航空機エンジンの規格統一案」の図面に視線を戻した。
外から聞こえる万歳の声が、彼には遠くから響く悲鳴のように聞こえていた。




