手形
一月後に現地で合流しろ。いいな」
山本のその言葉は、冷徹な軍令というよりは、戦場へ消えていく部下への、彼なりの不器用な餞別だった。
頼は海軍省を後にすると、その足で雪の積もる東京の街を歩き、官舎へと急いだ。
胸中にあるのは、上海の「無秩序」への怒りではなく、残していく家族への、言葉にできないほど重く、暗い後悔だった。
「ただいま、燈」
扉を開けると、そこには絢を背負い、夕餉の支度をする燈の姿があった。
湯気の向こうで微笑む妻と、背中で無邪気に声を上げる娘。
この温かな光景が、数年後には無謀な作戦と、ネジ一本の不足によって焼き払われるかもしれない。
頼の指先が、無意識に震えた。
「頼さん、お顔の色が……。何か、大変なことが?」
「一ヶ月後、上海へ行くことになった」
頼は、努めて平坦な声で告げた。
燈は一瞬、手にした杓子を止めたが、すぐに穏やかな微笑みを戻した。
「それでは、お支度を急がなくてはなりませんね。今夜は頼さんの好きなものをこしらえます」
その献身的な強さが、今の頼には何よりも痛かった。
その夜、頼は小さな文机に向かった。
一ヶ月という時間は、官舎の荷物を整理し、母たちに現状を伝えるには十分すぎるほど長く、しかし「最後」を覚悟するにはあまりに短い。
頼は二通の手紙を書き始めた。
一通は、熱田の実家で独り、息子の無事を祈り続けている母・静へ。
もう一通は、燈の母であり、今は一人で家を守っている恵子へ。
『お母さん。海軍省での勤務も一段落し、今度は上海の現場へ視察に赴くことになりました。
東京では燈がよくやってくれております。絢も首が据わり、最近では私の顔を見て笑うようにもなりました。
上海は遠い地ですが、山本閣下のご配慮により、信頼できる同僚も同行いたします。どうぞ、ご安心ください。
春の兆しが見える頃には、また良い便りを出せるかと思います。』
頼の筆が、そこで止まる。
「信頼できる同僚」という言葉を書きながら、頼の脳裏には久保田の偏屈な笑い顔が浮かんでいた。
彼を「道連れ」にした。自分の孤独を埋めるために、彼を戦火の中に引きずり込んだ。
その罪悪感が、インクの滴となって原稿用紙に滲んだ。
隣の部屋からは、燈が絢に歌い聞かせる子守唄が微かに聞こえてくる。
(俺は、この歌声を絶やさないために、計算機になる)
頼は手紙に、絢の小さな手形を添えた。
それは、実家の母たちにとっては何よりの宝物になるだろう。
だが頼にとっては、自分が守り抜かなければならない設計図そのものだった。
数日後。
頼は久保田と共に、出発前の最後の休息として、公園のベンチに座っていた。
「吾妻少佐。私を道連れにするのに、山本閣下に泣きついたそうですね」
久保田が、苦笑混じりに煙草を取り出し火をつけた。
「泣きついてはいません。効率を求めたまでです」
「強がらなくて良いんですよ。閣下から『一ヶ月休め』なんて言われるのは、あなたがよっぽど酷い顔をしてたからでしょう?」
久保田は空を見上げ、煙を吐き出した。
「私も、実家の父に手紙を書きました。『ネジの公差を見直しに中国へ行く』と。父は呆れていましたが、最後に一言だけ、『落とすなよ』って書いてありましたよ」
「飛行機を、ですか?」
「飛行機と、あなたの命です」
頼は、久保田の横顔を黙って見つめた。
二人の間を、冷たい冬の風が吹き抜けていく。
だが、その風はもはや、海軍省の廊下で感じたような刺すような冷たさではなかった。
1932年2月
頼と久保田は、見送りに来た燈と絢の姿を心の裏側に焼き付け、戦火の上海へと向かう船に乗った。
彼らの手にあるのは、最新鋭の兵器ではない。
一冊の手順書と、狂いのない計算尺。
それが、狂い始めた世界の歯車を食い止める、彼らだけの武器だった。




