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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、俺は旧日本海軍士官になった-【異世界年間最高104位/歴史日間最高9位/チート無歴史IF】  作者: 山口灯睦
第5章 1930年-1932年 海軍省編

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手形

一月ひとつき後に現地で合流しろ。いいな」


山本のその言葉は、冷徹な軍令というよりは、戦場へ消えていく部下への、彼なりの不器用な餞別はなむけだった。


頼は海軍省を後にすると、その足で雪の積もる東京の街を歩き、官舎へと急いだ。


胸中にあるのは、上海の「無秩序」への怒りではなく、残していく家族への、言葉にできないほど重く、暗い後悔だった。


「ただいま、燈」


扉を開けると、そこには絢を背負い、夕餉ゆうげの支度をする燈の姿があった。


湯気の向こうで微笑む妻と、背中で無邪気に声を上げる娘。


この温かな光景が、数年後には無謀な作戦と、ネジ一本の不足によって焼き払われるかもしれない。


頼の指先が、無意識に震えた。


「頼さん、お顔の色が……。何か、大変なことが?」


「一ヶ月後、上海へ行くことになった」


頼は、努めて平坦な声で告げた。


燈は一瞬、手にした杓子しゃくしを止めたが、すぐに穏やかな微笑みを戻した。


「それでは、お支度を急がなくてはなりませんね。今夜は頼さんの好きなものをこしらえます」


その献身的な強さが、今の頼には何よりも痛かった。


その夜、頼は小さな文机に向かった。


一ヶ月という時間は、官舎の荷物を整理し、母たちに現状を伝えるには十分すぎるほど長く、しかし「最後」を覚悟するにはあまりに短い。


頼は二通の手紙を書き始めた。


一通は、熱田の実家で独り、息子の無事を祈り続けている母・しずへ。


もう一通は、燈の母であり、今は一人で家を守っている恵子へ。


『お母さん。海軍省での勤務も一段落し、今度は上海の現場へ視察に赴くことになりました。

東京では燈がよくやってくれております。絢も首が据わり、最近では私の顔を見て笑うようにもなりました。

上海は遠い地ですが、山本閣下のご配慮により、信頼できる同僚ともも同行いたします。どうぞ、ご安心ください。

春の兆しが見える頃には、また良い便りを出せるかと思います。』


頼の筆が、そこで止まる。


「信頼できる同僚」という言葉を書きながら、頼の脳裏には久保田の偏屈な笑い顔が浮かんでいた。


彼を「道連れ」にした。自分の孤独を埋めるために、彼を戦火の中に引きずり込んだ。


その罪悪感が、インクの滴となって原稿用紙に滲んだ。


隣の部屋からは、燈が絢に歌い聞かせる子守唄が微かに聞こえてくる。


(俺は、この歌声を絶やさないために、計算機になる)


頼は手紙に、絢の小さな手形を添えた。


それは、実家の母たちにとっては何よりの宝物になるだろう。


だが頼にとっては、自分が守り抜かなければならない設計図そのものだった。


数日後。


頼は久保田と共に、出発前の最後の休息として、公園のベンチに座っていた。


「吾妻少佐。私を道連れにするのに、山本閣下に泣きついたそうですね」


久保田が、苦笑混じりに煙草を取り出し火をつけた。


「泣きついてはいません。効率を求めたまでです」


「強がらなくて良いんですよ。閣下から『一ヶ月休め』なんて言われるのは、あなたがよっぽど酷い顔をしてたからでしょう?」


久保田は空を見上げ、煙を吐き出した。


「私も、実家の父に手紙を書きました。『ネジの公差を見直しに中国へ行く』と。父は呆れていましたが、最後に一言だけ、『落とすなよ』って書いてありましたよ」


「飛行機を、ですか?」


「飛行機と、あなたの命です」


頼は、久保田の横顔を黙って見つめた。


二人の間を、冷たい冬の風が吹き抜けていく。


だが、その風はもはや、海軍省の廊下で感じたような刺すような冷たさではなかった。


1932年2月


頼と久保田は、見送りに来た燈と絢の姿を心の裏側に焼き付け、戦火の上海へと向かう船に乗った。


彼らの手にあるのは、最新鋭の兵器ではない。


一冊の手順書と、狂いのない計算尺。


それが、狂い始めた世界の歯車を食い止める、彼らだけの武器だった。

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