凍てつく火影
1930年12月27日
翌日の日曜から正月休みに入る海軍省は、御用納め特有の、弛緩した空気と切迫した緊張が混ざり合う奇妙な静寂に包まれていた。
廊下を歩く士官たちの足音も、どこか足早だ。
頼は、自らの執務机で、最後の一枚となる報告書の整理を終えた。
「吾妻大尉。出世街道を前に、あらぬ疑いをかけられるのは、誠に同情に堪えない」
振り返ると、そこには外套を羽織った藤井大佐が立っていた。
納めの式を終え、これから帰宅しようというのだろう。
藤井は、いつものように完璧な角度で帽子を被り直し、慇懃な笑みを浮かべていた。
「ご心配、痛み入ります。ですが、数字に疑いの余地はありません。事実は常に、一つだけですから」
「左様ですか。しかし、事実は一つでも、その『解釈』は組織の数だけある。まもなくあなたにどのような解釈を下されるか、今から楽しみにしておりますよ。せいぜい、良いお年を」
藤井は、勝ち誇ったような足取りで去っていった。その背中を見送りながら、頼は内心で冷徹に呟く。
(藤井大佐、、、楽しみなのは、こちらの方だ)
庁舎を出た頼は、雪混じりの風が吹く街角で、一人の男を待った。
久保田少佐である。
「吾妻大尉、本当に良いのですか?山本閣下が動いてくださるとはいえ、一月の査問はあなた一人が標的にされる。私にも分担させてください」
「いえ、久保田少佐は、航空主兵への技術的裏付けを完成させることに専念して頂く事が最上の策です。その上で私が泥を被り、あなたの研究が守られるなら、それが最も効率的な投資です」
「相変わらずですね」
久保田は苦笑しながら、頼の手を固く握った。その手の熱さが、頼には何よりも心強かった。
夜、官舎に戻ると、燈が台所で立ち働いていた。
年末の買い出しで疲れているはずなのに、彼女は頼の顔を見るなり、柔らかな微笑みを向ける。
「おかえりなさい、頼さん。お茶にする前に、熱田のお義母さんへのお手紙を書かれますか?」
燈に促され、頼は小さな文机に向かった。
『お母さん。東京の寒さもいよいよ厳しくなってまいりました。幸い、艦政本部での職務も、山本閣下のご期待に応えるべく、充実した日々を過ごしております。燈も、お腹の子と共に健やかに過ごしております。もうすぐ初孫の顔を見せられるよう、私も家を整えて待つ所存です。世情は不穏ですが、どうぞご自愛ください。一月の激務を乗り越えれば、また少し、落ち着いて便りも書けるかと思います』
「一月の激務」という言葉に、頼はわずかに筆を止めた。
それが単なる事務作業ではなく、軍籍を賭けた戦いであることを、遠く熱田で祈っている母は知る由もない。
頼は静かに封を閉じ、燈に手渡した。
大晦日の夜。
官舎の窓を、凍てつくような北風が叩く。
燈が用意した年越し蕎麦からは、鰹節の香りが温かく立ち上っていた。
「頼さん、来年は、このお蕎麦を食べる口がもう一つ増えますね」
「ああ、そうだな。賑やかになる」
頼は、燈のふっくらとしたお腹に視線を落とした。
ここには、確かに一つの命が息づいている。
これから日本に訪れる運命、それがどれほど過酷で、光の見えない道になるか。
数えきれないほどの「結末」が頼の脳裏に明滅した。
だが、今はそれを口にする時ではない。
(俺はこの小さな温かさを、この穏やかな灯火を守る為にここにいる)
そのためなら、どれほど組織に疎まれ、どれほど冷血な機械だと蔑まれようとも構わない。
海軍という巨大な怪物の心臓に、計算尺一本で立ち向かう。
その無謀な闘いだけが、唯一、自分の娘が生きる未来を繋ぎ止める楔になるのだと、彼は信じていた。
「頼さん、お蕎麦、冷めてしまいますよ」
「ああ、ありがとう。今いただくよ」
頼は、過去の記憶も未来の予感も、すべてを飲み込むように、静かに箸を動かした。
そして年が変わろうとする東京に、除夜の鐘が響き渡る。
一〇八つの鐘の音は、一つ、また一つと、頼の迷いを削ぎ落としていった。




