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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、俺は旧日本海軍士官になった-【異世界年間最高104位/歴史日間最高9位/チート無歴史IF】  作者: 山口灯睦
第5章 1930年-1932年 海軍省編

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胎動

頼の艦政本部への着任から、早くも九ヶ月が過ぎようとしていた。


窓外の木々はいつしか色づき、吹き抜ける風には、夏の終わりの湿り気ではなく、秋の気配が混じり始め、結実の季節へと移ろおうとしていた。


頼がこの三つの季節を費やし、孤独に、そして執拗に積み上げてきた「静かな合理化」は、組織の深層で確かな形を成し始めている。


それは正に、藤井大佐が牽制した通り古参の者たちの利益と面子を深く脅かし始めていた。


そして頼は、久保田少佐という強力な同志を得て、組織の論理を破壊するための要塞を完成させたのである。


彼らは、久保田の技術的知見と、頼の組織内での緩衝材としての立場を最大限に活用した。


久保田は、藤井大佐らが予算をつけて推進していた「技術偏重、精神論優先の新型艦計画」が、極めて燃費の悪い高コスト構造であるという致命的な欠陥を科学的に証明した。


頼は、この事実を「国家戦略上の資源消耗シミュレーション」という中立的な名目の資料に盛り込み、山本五十六の協力のもと、海軍省の予算委員会に提出させた。


その資料は、藤井大佐らが主張する新型艦を建造した場合、「運用からわずか数ヶ月で燃料補給が限界に達し、海軍の作戦可能期間が半減する」という、誰にも否定できない数字を突きつけた。


これは単なる合理化ではない。


頼の功績は、巨悪が推進していた「金食い虫で無謀な拡大路線」の予算を、具体的に停止に追い込んだという、政治的かつ戦略的な勝利として結審された。


そして、その頼たちの勝利は、藤井大佐と松原少佐の権威と利益を決定的に破壊した。


しかし二人は、連携して頼への反撃を開始した。


藤井は、久保田少佐との極秘接触の記録を捏造し、「吾妻は機密情報を不正に共有したスパイまがいの行為に及んでいる」と公式に告発した。


告発文書は、頼の「過度に合理主義的で冷徹である」という評判と相まって、組織内を一気に二分させた。


藤井大佐の狙いは明確だった。


昇進の芽を摘むだけでなく、組織の規律違反を名目に頼を予備役へ追放し、自らの権威を回復することである。


頼は、この告発により、孤独な闘いの最終的な危機に立たされた。


その夜、頼は官舎に戻ると、燈が自分の制服のボタンがほつれているのに気づき、夜遅くまで縫い直しているのを見た。


「気付かなかったよ。ありがとう、燈」


「いいえ。身だしなみは、いつも綺麗にしておかなくてはと思って」


頼は、この偽装の生活がいつまで続くのか、そしてこの献身的な愛が、自分の秘密によっていつか傷ついてしまうのではないかという葛藤に苛まれた。


軍務局で受けた冷たい緊張と、この部屋の温かさとの対比が、彼の心を深く疲弊させた。


頼は、この日常を守るために、冷徹な仮面を維持し続けなければならない。


裁縫を終え燈は、いつものように熱い茶ではなく、温めた牛乳を湯呑みに入れて差し出した。


「今日は、熱いお茶より、こちらの方が頼さんの身体に優しいと思って」


その言葉と、茶碗を受け取る際に見えた、燈が自分の腹部にそっと添えていた手の仕草に、頼の胸に初めての予感がよぎった。


頼は、目の前の妻の表情に、新たな命を宿した者だけが持つ静かな強さを見た気がした。


海軍省で直面した冷たい権力闘争と、この部屋に生まれた新しい光の気配の対比は、頼に全身を貫くほどの静かな衝撃を与えた。


彼の孤独な闘いの原動力が、いま、決定的な重みを増したのだ。


頼は小さな机に向かい、熱田の実家にいる母親へ手紙を書き始めた。


しかし海軍省での勤務について、詳しく書くことはできない。


彼は、表向きの順調な生活を伝えた。


『艦政本部での仕事もようやく慣れて参りました。専門の計算業務が多く、充実した日々を送っております。東京は寒いですが、官舎で燈が身の回りのことを献身的にやってくれておりますので、ご心配なく。』


そして、彼は一文を付け加えることに、わずかに躊躇した。


だが、燈が背後からそっと自分の肩に触れたとき、彼は決心した。


『近況といたしましては、燈が近頃、少し体調を崩しがちな様子が見受けられます。まだ確かなことは申せませんが、来年の紫陽花の咲く頃には、何か良いご報告ができるやもしれません』


頼にとって、それは自然な喜びの共有だった。


だが、数日後、実家の母・静から届いたのは、喜びと共にある「嗜め」の手紙だった。


『頼さん。燈さんのご様子、何よりの喜びです。ですがあえて申します。まだ二月(ふたつき)そこらで実家へ知らせるなど、あまりに気が早すぎます。昔から「帯祝い(安定期)」を済ませるまでは、静かに天に任せるのが道理。男親が浮足立ってどうするのですか。良い報告は、無事に産声を聞いてからで十分です。それまでは、どっしりと構えていなさい』


頼は深夜の灯火の下、自嘲気味に笑った。


すぐさまに喜びを伝えてしまった自分を、母に嗜められた形だ。


だが、その厳格な言葉の裏にある深い慈愛を感じ、頼は決意した。

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