抗体
除夜の鐘の余韻も消えぬうちに、東京は例年にない厳しい寒波に包まれた。
海軍省の重厚な石造りの建物は、冷たい霧の中に沈んでいる。松飾りが取り払われたばかりの庁舎内には、祝賀の空気など微塵もなかった。
本来であれば、前年の予算委員会において、新型艦計画の致命的欠陥を暴いた大戦果を祝うべき年明けのはずだった。
しかし、頼を待っていたのは、賞賛ではなく「査問」という名の断頭台であった。
組織というものは、正論を吐く者、特に「正しすぎる数字」で権威を傷つける者を、抗体のように排除しようとする。
年明け早々、頼が呼び出されたのは、人事局の奥深くにある窓のない小会議室だった。
寒々しいその部屋で、藤井大佐は冷ややかな笑みを浮かべ、机の上には捏造された「久保田少佐との密会記録」と、厚い服務規定の冊子を積み上げていた。
「吾妻大尉。君の『数字の遊び』が、一時的に委員会を惑わせた功績は認めよう。だが、手段を選ばなさすぎたな」
藤井の声は、獲物を追い詰めた猟犬のように湿っていた。
「一介の大尉が、艦政本部の機密を独断で他部署の人間と共有し、組織の序列を乱す。これはもはや、規律の範疇を越えた軍紀違反、、、いや、スパイ行為に等しい。君のお得意の合理主義も、予備役への編入勧告という紙一枚の前では無力だ。潔く署名したまえ。さもなくば、軍法会議でこの不名誉を公にすることになる」
頼は、その恫喝を無表情に受け流していた。
その視線は、藤井の背後にある古びた壁時計に向けられている。
頼が計算していたのは、藤井の怒声の長さではなく、山本五十六が「手配した事務手続き」が完了するまでの時間だった。
しかし彼は、この時代の官僚機構がいかに前例と手続きに縛られているかを知っていた。
そして、その巨大な機構を唯一動かせるのは、さらに上位の「手続き」だけであることを。
その時、ノックもなしに扉が開いた。
現れたのは山本五十六その人であったが、彼は藤井を見ることなく、手に持っていた茶封筒を事務的にテーブルへ放り出した。
「藤井大佐。その査問は、誰の許可を得て行っているのだ?人事局の専断か、それとも艦政本部長への事後報告で済ませるつもりか」
山本の声は低く、そして鋭かった。
藤井が慌てて立ち上がり、弁明を始めるのを、山本は片手で制した。
「吾妻大尉が久保田少佐と接触したのは、私の直轄で行っている『航空兵装の規格化に関する特命調査』の任務だ。資料の共有は私が許可した。藤井、君は私の承認事項を軍紀違反と呼ぶのか」
それは、救済というよりは「組織の論理による圧殺」に近い冷徹さだった。山本は懐から一枚の辞令書を取り出し、捏造された告発資料の上に重ねた。
「本日付をもって、吾妻頼大尉は海軍少佐に昇進。同時に、艦政本部第一部勤務を継続しつつ、航空本部特命付とする。藤井、彼を追い出したいのなら、まずは私を軍法会議にかけることだな」
藤井の顔が、怒りと屈辱で土色に変わる。
頼を排除するどころか、彼は今、山本という巨大な庇護を獲得し、「航空本部」という新たな聖域を手に入れた政敵を、自らの部署の心臓部に居座らせることになったのだ。
「吾妻少佐。明日からは私の仕事が倍になると思え」
山本はそれだけ言い残すと、振り返りもせずに退出した。
小会議室を出た頼は、廊下の窓から見える凍てついた東京の空を見上げた。
少佐の肩章は、昇進の喜びよりも、より巨大な濁流に身を投じるための重石のように感じられた。
その日の夕刻、雪の降り始めた官舎へ戻ると、燈が安定期に入り少しふっくらとし始めたお腹をいたわりながら、頼を待っていた。
そしてあと数ヶ月で初めての子が生まれる。
「少佐に、なられたのですね」
頼の新しい階級章に触れる燈の指先は、温かかった。
「ああ。だが、これからが本当の正念場だ、燈」
頼は燈の手を、自分の大きな手で包み込んだ。
曽祖父、祖父、父が生きたこの国を、自分は、頼自身の、現在の暗雲の今、から守り抜かなければならない。
自分の手の中に宿る小さな鼓動と、海軍省の冷たい権力闘争。
その両方を抱えながら、頼は「冷徹な計算者」という仮面をさらに深く被り直した。




