決断
北支の緊張がひとまず表面上の収束を見せてから、十日あまりが過ぎていた。
霞ヶ関の海軍省では、あれほど張り詰めていた空気が、ほんの僅かばかり緩み始めていた。
「どうやら、今回は手打ちとなったようです」
机の上に置かれた電報を読み終えた久保田中佐が、安堵とも疲労ともつかない息を吐く。
頼は黙ったまま、その電報を受け取った。
現地での局地的な武力衝突は、双方の妥協と外交的な水面下の調整によって何とか表面上の収拾を見た。
中国側はこれ以上の拡大を避ける形で譲歩し、日本側も現地で得た優位を維持する形で、ひとまず最悪の全面衝突は回避されたのだ。
「収まった、か……」
頼は小さく呟いた。
その言葉を、何度も頭の中で転がしてみる。
確かに銃声は止んだ。
死傷者がこれ以上増えることもない。
中央としては、事件を局地的な紛争として処理し、外交交渉によって事態を穏便に収束させることができた。
――表面上は。
「吾妻さん?」
久保田が怪訝そうに顔を上げる。
「いや……」
頼は電報から視線を外し、窓の外へ目を向けた。
「こういう事件で本当に怖いのは、銃声が止んだ後なんです」
「銃声が止んだ後、ですか?」
「はい」
頼はゆっくりと立ち上がった。
「今回、現場がどうにか手打ちになったことで、双方の胸に一つの決定的な感覚が残った」
「感覚ですか」
「そうです」
頼は頷いた。
「現地の連中からすれば、『強く出れば中国側が折れる』という成功体験です。一歩押せば相手は退く。ならば次は、もう一歩踏み込めばいい――そう考える強硬派の勢いが増す」
久保田の表情から、わずかな安堵が消えた。
頼は続けた。
「そして中国側から見れば、まったく逆です。一度退けば、日本側は、そこを足掛かりにしてさらに圧力をかけてくる。ならば次は、これ以上一歩も引くわけにはいかないと背水の陣を敷く」
机の上に置かれた北支の地図を、頼は指先でなぞった。
豊台。
北平。
天津。
その先には、広大な華北が広がっている。
「つまり……双方が今回の事件から、まったく逆の、そして最も危険な教訓を得る」
「そういうことです」
頼は静かに答えた。
「『押せばもっと通る』と『これ以上退けばすべてを失う』このねじれが解消されない限り、次の衝突はより大きな規模で、必ず起きます」
室内に沈黙が落ちた。
窓の外に見える帝都の街は、何事もなかったかのように動いている。
人々は仕事へ向かい、新聞は次々と新しい記事を刷り、ラジオからは穏やかな音楽が流れている。
だが、その一方で、大陸では一つの小さな火種が、確実に別の意味を持ち始めていた。
「それでも、今の危機をやり過ごせたこと自体は事実ですね」
久保田が言った。
「そうですね」
頼も否定しなかった。
「だからこそ、東京の『紙』が間に合わないなら、別の手立てを講じる必要があります」
「別の手立て?」
「以前から温めていた件、――山崎少佐を大陸へ送り込みます」
その名前が出た瞬間、久保田の眉がわずかに動いた。
「ついに動かすんですね」
「あの日、豊台の空気が変わった。陸軍の要則を待っている余裕などありません」
「ただし、山崎を大陸へ送る理由は、現地の様子を見届けるためだけではありません」
頼は机の引き出しから極秘の書類を取り出した。
「石原大佐は、陸軍の内側から現地部隊を統制しようとしている。だが、それだけでは足りません」
久保田が眉をひそめた。
「海軍からも楔を打つと?」
「そうです」
「現地の陸軍がどれほど勇ましいことを言おうと、兵は飯も弾もなしには動けない」
机の上の北支の地図へ視線を落とす。
「海軍が補給を握っている以上、こちらには陸軍の要則とは別の手段があります」
「補給を……」
「止める」
久保田の表情が強張った。
「現地で独断による武力衝突が起きた場合、まず事実を確認する。その上で、中央の方針を無視して戦闘を拡大させようとするなら、海軍側から補給を絞る」
「そこまでやるんですか」
「はい。そのために陸戦隊の山崎少佐を送ります」
頼の声に迷いはなかった。
「山崎は現地の状況を見て、陸軍の動きを監視する。そして必要なら、補給という手綱を使って暴走を止める」
久保田は息を呑んだ。
「石原大佐が陸軍の内側から縛り、山崎少佐が外側から手綱を握る……」
「その通りです」
頼は静かに頷いた。
「命令だけでは止まらない連中もいる。ならば、止まらざるを得ない仕組みを作るしかない」
頼は山崎の書類を閉じた。
「次に銃声が鳴ったとき、それが戦争へ繋がるかどうかは――現地の連中だけには決めさせない」
頼は一度、言葉を切った。
「問題は、火を消すことそのものよりも――誰が意図的に火を点けたのかを、現場の混乱の中で見失わないことだ。事実がねじ曲げられ、中央に届いたときには、もう誰も止められなくなる」
久保田の顔から笑みが消えた。
それは、今回の豊台事件の顛末を見つめた頼が、新たに得た確信だった。
銃声そのものよりも恐ろしいものがある。
それは、銃声の後に残された曖昧な記憶と、都合よく作り替えられていく「開戦の口実」だ。
「吾妻さん」
「はい」
「間に合いますか?」
頼はすぐには答えなかった。
やがて、静かに窓の外へ視線を戻す。
「間に合わせるしかありません」
その声には、先ほどまでの迷いは一切なかった。
霞ヶ関の時計が、乾いた音を刻む。
大陸では、ひとまず銃声が止んだ。
だがそれは、火が消えたことを意味してはいなかった。むしろ――次の火種が燃え上がるまでの、わずかな静寂が始まっただけだった。




