焦燥
霞ヶ関の海軍省内で、陸軍との今後の対応をめぐる調整や議論が煮詰まっていた頃、陸軍省・参謀本部の一室もまた、異様な静けさと、それに押し潰されそうな熱気に包まれていた。
壁にかけられた巨大な大陸地図の前で、石原莞爾は腕組みをしたまま微動だにしていなかった。
その傍らには、たった今届いたばかりの北支からの続報――第二次豊台事件の詳報が、無造作に置かれている。
窓の外では、秋めいてきた東京の空がどこまでも青く広がっているというのに、室内の空気は鉛のように重く淀んでいた。
「間に合わなかったか、、、」
誰に聞かせるでもなく、石原が低く呟いた。
その声には、これまで幾度となく情勢を読み、先を見通してきた石原でさえ、もはや計算だけでは覆せない現実を前にした、深い焦燥が滲んでいた。
書類の山の中には、彼が大陸の現地部隊を縛り上げ、全面戦争への拡大を防ぐために心血を注いで立案した「管理要則」の草案が転がっている。
7月末から、それを急ピッチで進めてきたものの、陸軍省や教育総監部との煩雑な中央の決裁や権限争いの壁に阻まれ、まだ正式な達しとして現地へ浸透しきっていなかった。
思い起こせば5年前、自らが主導した満州事変の時もそうだった。
あの時は現地の暴発を逆に利用し、既成事実として満州国建国へと拡大させる側に回った。
しかし、いまや立場は完全に逆転している。
自分たちがかつて利用した「現地の暴発」というものが、今度は自らの手を離れ、制御不能な拡大へと向かおうとしている。
歴史の皮肉とは、これほどまでに残酷なものか。
中央が現地を御しきれなくなる恐怖、そして「現地はいつだって勝手に動く」という真実を誰よりも知っているからこそ、石原の胸中には言いようのない焦燥と、過去の自分への因果応報とも言える苦渋が渦巻いていた。
軍中央の統制が隅々まで行き届くよう、現地での勝手な戦闘行為を厳禁とし、偶発的な紛争を局限するための切り札として作られたはずの要則だった。
しかし、その制度が現場の一部将校たちの熱気や、日増しに高まる「暴支膺懲」の世論の奔流に試されるより早く、豊台の夜の闇を切り裂いた銃声が、すべての努力を粉々に踏みにじったのだ。
「作戦課長、北支駐屯軍からの上申です。今回の事件を既成事実とし、一気に天津・北平周辺の敵を一掃すべきだとの強硬論が現場を支配し始めています!」
部下が青ざめた顔で差し出した電報を、石原は冷徹な眼差しで一瞥しただけで、受け取ろうともしなかった。その手は、わずかに震えていた。
「バカ者め。現地が勝手に火を点ければ、満州の二の舞どころか、我が国全土が広大な中国大陸という底なし沼に引きずり込まれるわ。蒋介石の中央軍を相手に、満州と同じ真似ができると思うのか」
吐き捨てるような石原の言葉には、自らが描いた理詰めの戦略が、制度化のタイムラグと現場の偶発的な狂騒によって崩れ去っていく深い無力感が滲んでいた。
北支の現場はすでに東京の意図を完全に離れ、独自の論理と憎悪の連鎖で暴走を始めている。
参謀本部がどれほど完璧な統制策を練り上げようとも、現地で飛び交う銃声一発の前では無力な紙屑に等しいという現実が、容赦なく突きつけられていた。
中央が統制を失い、拡大派の勢いが一気に既成事実化していく。
東京の霞ヶ関で、海軍の参謀たちが「どうするか」と苦悶していたのと全く同じ時、陸軍の中枢そのものもまた、自らが制御できなくなった歴史の怪物に飲み込まれ始めていた――。
拙作お読み頂きありがとうございます。
もし今作面白いと思って頂けましたら、⭐︎での評価や、ブックマーク、リアクション、コメントなど頂けましたら、これからの作話にとても励みになります。
これからも頑張って執筆致しますので、どうか今後とも応援よろしくお願い致します。




