連鎖
「また、か、、、」
霞ヶ関の海軍省の一室。
久保田中佐が青い顔のまま、インクの乾ききっていない新聞の束を頼の机に荒々しく叩きつけた。
「今度は広東省の北海で、日本人商人が暴徒に惨殺されました、成都の事件だけではありません。漢口でも、上海でもない。中国各地の点と点が、まるで網の目のように結ばれ、意図的に仕組まれたような排日行為の連鎖が起きています」
頼は窓の外の青空を見据えたまま、すぐには返事をしなかった。
脳裏には、陸軍の中枢がこの報せを受けて今頃どう狂い始めているかがありありと浮かんでいた。
省内の廊下を行き交う職員たちの足音には、どこか焦燥と殺気が混じり始めている。
頭の中では、最悪のシナリオが猛スピードで組み上がり、そして音を立てて崩れていく破滅の音がしていた。
成都事件が日本国内の世論を激昂させ、陸軍の若手将校たちが「もはや外交交渉の余地などない、一気に支那を叩き潰せ」と息巻いていた矢先のことだった。
北海事件をはじめとする立て続けの凶報は、石原莞爾が作戦課で必死に、文字通り血眼になって推し進めていた「管理要則」の枠組みそのものを、まるで乾いた土のように粉々に瓦解させていく。
(火薬庫の周囲に、次々とガソリンが撒かれ、火が投げ込まれている、、、)
このままでは、偶発的な小さな衝突が既成事実化され、それが『全面戦争』へと拡大するのを防ぐ防壁など、霞ヶ関の机上の空論ではどこにも維持できなくなる。
山本が水面下で外務や閣僚の耳にどれだけ防波堤を作ろうとも、現場の熱量がその防壁の高さを軽々と超えて押し寄せてくるのは明白だった。
世論の狂騒を口実に現地の軍が暴発し、取り返しのつかない大兵力を引きずり出す前に、こちらも現地へ『楔』を打ち込まなければならない。
しかし、政府の公式な外交方針や軍中央の統制が揺らぐ中、どの名目で、どのタイミングで駒を滑り込ませるか――その機を見極めるのは容易ではなかった。
水面下の調整を進めつつ、頼は歯痒い思いで、手元の電報の束と大陸からの凶報を睨みつけるしかなかった。
動くべき時は来る。
だが、早すぎても、遅すぎてもすべてが台無しになる。その絶妙なタイミングの淵で、頼は冷徹に息を潜めていた。
だが、霞ヶ関で一人の参謀が歯を食いしばっている間にも、大陸の時計の針は容赦なく、破滅へ向けて加速していっていた。
北海事件の衝撃が冷めやらぬまま、わずか半月のうちに時は9月中旬へと突入する。
満州事変の記念日であり、軍部にとっても特別な意味を持つ「9.18」を目前に控え、北支の要衝――北京郊外の豊台の中国軍とのにらみ合いは、すでに限界点を突破しようとしていた。
条約を無視した不法駐屯、繰り返される夜間演習、そして互いの不信感が極限に達した現地では、いつどちらの銃口が暴発してもおかしくないほどの緊張感が、砂埃の舞う大地を重く覆っている。
そして、運命の9月18日未明。
北支の夜の闇を切り裂くように、豊台の演習場付近から、乾いた、しかし決定的な一発の銃声が鳴り響いた。
その緊迫した一報が、無線電信と暗号の海を渡って東京の霞ヶ関へもたらされたのは、同日の朝のことだった。
『――豊台にて、日中両軍が衝突! 現地駐屯軍より緊急電打電!』
海軍省の軍務局のフロアにもたらされたその報せは、前回の成都事件のそれとは比較にならないほどの巨大なうねりとなって、軍中枢を、そして日中関係の歯車をとりかえしのつかない破滅へと加速させていく――。




