見えざる防壁
「石原が作戦課で血眼になっている例の管理要則だが、あれはまだ国内の机上の空論に過ぎん。北支の最前線に届くのは、どう見積もっても手遅れになる。つまり、現場の暴発を防ぐはずの楔は、次の危機には間に合わんのだ」
山本が鋭い視線を頼に突きつける。
「さて、吾妻。防壁が間に合わないというのなら、現地で火の手が上がったとき、海軍としてどう動くべきか? お前の頭の中では、すでにいくつかの筋書きが回っているはずだ」
「おっしゃる通りです、閣下。最初の破綻そのものを未然に防ぐのが難しいのであれば、肝心なのはそこから先になります」
頼は山本の鋭い視線を真っ向から受け止め、静かに、しかし明瞭に言葉を返した。
「現地で起きた不測の衝突が既成事実とされ、それが『取り返しのつかない全面的な破滅』の引き金へと拡大することだけは、何としてもここで食い止めなければなりません」
山本はしばらく沈黙し、机の上のきよめ餅の包みにちらと視線を落としてから、再び頼の目をじっと見据えた。
「つまり、万が一現場で衝突が起きたとき、その拡大を防ぐための『損害限定』の道筋をあらかじめ敷いておけ、ということか」
「はい。そのための楔を、今、水面下で打つ必要があります」
頼の瞳に宿るただならぬ決意を見て、山本はゆっくりとうなずいた。
「海軍中央だけでなく、外務や閣僚の耳にも、最悪の事態を想定した防波堤についてそれとなく通しておく必要があるな。」
「――失礼します」
頼は深く一礼し、海軍航空本部長室の重厚な扉を背にした。
廊下に出た瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩み、背中にじっとりと汗をかいていることに気づく。
だが、安堵している暇はなかった。
(これで、外枠は整った。山本閣下が裏で動いてくれる。これ以上の後ろ盾はない。あとは、現場だ――)
頼はそのまま自分の執務室へは戻らず、廊下の奥にある電話室へ向かった。
この話を、周囲に聞かれるわけにはいかなかった。
電話室の扉を閉め、海軍の専用電話の受話器を取る。
横須賀鎮守府の回線を呼び出す。
ジリリ、と数回の呼び出し音が響いた。
『――山崎だ』
「俺だ、山崎、吾妻だ」
受話器の向こうで、山崎が小さく息を呑む気配がした。
『頼か、、、盆明け早々、霞ヶ関は随分と慌ただしいようだな』
「ああ。五相会議の骨子も固まった。だが、石原大佐の例の点呼要項はまだ大陸の現場に届くには時間がかかる、お前もいよいよ出番になる」
『もちろん、覚悟は出来ている』
山崎の声に迷いはなかった。
頼から「いずれ大陸に飛ばされる」と告げられた6月のあの日から、薩摩隼人の腹はとっくに括られていた。
「そうだ。今の大陸の排日・抗日感情の沸騰ぶりから見れば、いつどこで邦人(日本人)を巻き込んだ暴動が起きてもおかしくない。そうなれば海軍省も、居留民保護を大義名分に国内の鎮守府――横須賀から陸戦隊を緊急派兵せざるを得なくなるだろう。お前はその増援部隊の指揮官の椅子を掴み取って、華北へ渡れ」
受話器の向こうで、山崎が短く息を吸い込む気配がした。
『現地への増援か。俺が現地に入った後は、どう動く?』
「山本閣下から、現地部隊への釘刺しと裏の調整の約束は取り付けた。お前は現地に入り次第、海軍の立場を使って『陸軍側の独断専行を監視する防波堤』となれ。詳細な出方については、現地の情勢を見ながら追って伝える。まずは、いつでも動けるよう部隊のネジを締めておいてくれ」
『了解だ。まずは部隊のネジを締め直しておく。現地で余計なところまで一緒に緩まないようにな』
短い通話を終え、受話器を置く。
電話室を出た頼の目に、窓の外の青空が映った。
街は、4年後の東京オリンピック開催決定の祝賀ムードに浮かれ、ラジオからはベルリン五輪の「前畑がんばれ!」の熱狂の余韻が未だに聞こえてくる。
だが、その平和な熱狂を切り裂く「最初の爆弾」は、すぐそこまで迫っていた。
8月24日。
霞ヶ関のコンクリートの回廊に、激しい鈴の音とともに号外売りの悲鳴のような声が響き渡った。
『号外!号外!成都にて我が同胞、暴徒に虐殺さる!』
久保田中佐が激しく扉を開け、頼の机にインクの匂いも生々しい新聞を叩きつける。
紙面には、暴徒に殴り殺された日本人記者の凄惨な文字が躍っていた。
陸軍の廊下からは「それ見たことか!支那を討て!」という若手将校たちの好戦的な怒号が聞こえ始める。
頼は、その騒音をただ冷静に、静かに聞いていた。
成都から始まった排日の嵐は、中国全土をガソリンの満ちた部屋へと変えてしまうのか。




