安穏の暗流
休暇明け初登庁の朝。
上大崎の自宅を後にした頼は、再び霞ヶ関の重苦しいコンクリートの回廊へと足を踏み入れていた。
熱田の杜で浴びた緑の風や、家族と囲んだ温かな食卓の記憶は、省庁の冷ややかな空気の中に身を置いた瞬間、まるで遠い夢の出来事のように遠ざかっていく。
机の上には、見慣れた膨大な書類の山が、まるで主の帰りを待っていたかのようにうず高く積まれていた。
「吾妻中佐、いいご静養になりましたか?」
隣の机で山のような電報を仕分けていた若い将校が、疲れた笑みを浮かべて声をかけてくる。
「ああ、おかげさまでな」
短く答えながら、頼は万年筆を手に取り、溜まりに溜まった実務の処理へと没頭し始めた。
八月上旬には、首相・外相・蔵相・陸相・海相による「五相会議」も終わり、今後の帝国の方針を定める『国策の基準』も、その骨子を固めていた。
北進と南進の双方をにらみつつ、大陸における権益確保と防衛体制の強化を謳ったその文書は、一見すれば穏当な妥協の産物に見える。
だが、その実態がどれほど危うい均衡の上にあるかは、中枢にいる者には痛いほど分かっていた。
午前が過ぎ、昼下がりを迎えた頃。
執務室の扉が静かにノックされ、久保田中佐が、苦虫を噛み潰したような顔で入ってきた。
「相変わらず、戻って早々、机にしがみついているようですね、吾妻さん」
「久保田中佐、ちょうどいい。休み前に仕事を肩代わりしてくれたおかげで、無事に帰省ができました。礼にもなりませんが、お土産です」
頼が包みを取り出し、久保田に手渡した。
包みには「熱田名物 きよめ餅」と書かれている。
久保田は眼鏡の奥の目をわずかに丸くし、それからふっと皮肉な笑みを浮かべた。
「そんな、お礼には及びませんが、わざわざのお気遣いありがとうございます。ありがたく頂きます」
久保田は包みを受け取ると、懐から一通の極秘報告書を音もなく滑り込ませた。
表情が、ふたたび鋭い軍人のそれに戻る。
「さて、現実に戻りますと、五相会議が終わって一息つく間もありません。欧州では、ベルリン・オリンピックの熱狂の裏で、スペイン内戦へのドイツ・イタリアの介入が本格化しています。しかし、問題は本国と大陸の空気ですよ」
頼は差し出された書類に目を走らせた。
そこには、石原莞爾が作戦課で必死に推し進めている「札と点呼の要則」を巡る、参謀本部内の泥沼の遅延工作が記されていた。
「やはり、間に合わないか、、、」
頼の低い呟きに、久保田が冷ややかに頷く。
「ええ。石原は大佐の権勢を使って急速度で通そうとしています。肝心の要則案は、まだ国内の会議室や決裁の段階をウロウロしている。大陸の最前線、北支の駐屯軍の連中にまで、その『管理の網』が届くまでには、まだ時間がかかります」
石原の脳内では「組織を救う絶対の理」として完全に結晶化したその管理システムも、巨大で旧態依然とした陸軍の官僚機構と保守派の抵抗の前に、足止めを食らっていた。
「現場の連中は相変わらずだ。『いざとなれば、また満州事変の時と同じように、勝手に既成事実を作ってしまえば中央は従わざるを得ない』と、北支で不穏な気配を強めている。北支では、いつ火が吹いてもおかしくない状態だ」
久保田の言葉の重みを、頼は静かに受け止めた。
石原に仕込んだ「楔」は、まだ国内の檻からすら出ていない。
このままでは、大陸の現場の暴発を止める防壁は何一つ機能しない。
そこへ、別の将校が慌ただしく足音を響かせてやってきた。
「吾妻中佐、山本閣下がお呼びです」
頼は書類から視線を外し、ゆっくりと立ち上がった。
「わかった。すぐに行く」
山本の執務室――海軍航空本部技術部長室の重厚な扉を叩き、足を踏み入れると、そこには腕を組んで窓の外の霞ヶ関を見つめる山本五十六の姿があった。
「戻ったか、吾妻」
山本は振り返ると、どこか険しい、しかし深い決意を宿した目を頼に向けた。
「熱田のご家族は息災だったか? いや、すまない、甘い余韻に浸っている暇はなさそうだ。北支の現地から、なにやらきな臭い電報が入っている。陸軍の現場が、また何かやらかそうとしているらしい」
山本はそう言うと、ふっとテーブルの端に目をやった。
頼が部屋に入る際、そっと置いた「きよめ餅」の包み箱に気づいたのだ。
「ほう、熱田詣りにきよめ餅、熱田神宮の銘菓か」
「はい、昨年から売り出されたばかりですが、熱田神宮へお参りするなら、きよめ餅を買わねば、と評判になっています」
「なるほど。それは楽しみだ」
山本は嬉しそうに包みを手に取った。
そして、ふと頼の顔を見る。
「なあ、吾妻。今、食べてもいいか?」
「もちろんです」
「そうか」
山本は嬉しそうに頷くと、待ちきれないとばかりにきよめ餅を口へ運んだ。
「うん。これはうまいな、羽二重のやわらかさといい、上品な餡の甘さといい、川西屋の酒まんじゅうとは違ったうまさがあるな」
満足そうに頷き、もう一つへ手を伸ばしかける。
「もう一つ、いいか?」
「どうぞ、お気に召したようで何よりです」
「うん、うまいな」
山本は満面の笑みを浮かべ、二つ目のきよめ餅を手に取った。
だが、二つ目を食べ終えると、さすがに我に返ったように咳払いを一つする。
「さて、吾妻」
山本はわずかに表情を和らげたが、すぐにその眼光を鋭く引き締めた。
「石原が作戦課で血眼になっている例の管理要則だが、あれはまだ国内の机上の空論に過ぎん。北支の最前線に届くのは、どう見積もっても手遅れになる。つまり、現場の暴発を防ぐはずの楔は、次の危機には間に合わんのだ」
山本が鋭い視線を頼に突きつける。
「さて、吾妻。防壁が間に合わないというのなら、現地で火の手が上がったとき、海軍としてどう動くべきか? お前の頭の中では、すでにいくつかの筋書きが回っているはずだ」
窓の外では、1940年オリンピック東京開催決定に沸く街のざわめきが、遠く微かに聞こえていた。
その華やかな熱狂の裏側で、帝国の運命を揺るがす「次の暴発」の足音が、確実に近づいていた。




