夏の影
朝日が熱田の杜の緑を鮮やかに染め上げる頃、吾妻家の朝は穏やかな蝉時雨とともに始まった。
朝餉を済ませ、一息ついたところで、母・静が穏やかな笑みを浮かべて言った。
「今日は、お父さんのところへ行ってあげおくれ。東京から帰ってきた孫たちの顔も見せてあげないとねぇ」
「そうだね。お母さん、行こうか」
頼がうなずくと、燈も支度を整え、絢と継の手を引いた。
実家の近くにある吾妻家の菩提寺は、古い歴史を持つ静かな寺町の一角にあった。
境内には幾重にも枝を広げた大樹が立ち並び、強い夏の陽射しを心地よい木漏れ日に変えて、参拝客の歩みを優しく包み込んでくれる。
石畳を踏みしめながら本堂の裏手に回ると、代々受け継がれてきた古い石塔が静かに並ぶ一角があった。その中央に佇む「吾妻家之墓」の前に、一家は歩み寄る。
「おじいちゃん、おるすばん?」
まだ幼い継が、不思議そうに首をかしげながら墓石を見上げる。
静は「そうだよ、おじいちゃんにご挨拶しようね」と目を細め、慣れた手つきで墓石に水を打ち、線香に火を灯した。
ふわりと立ち上る線香の煙が、夏の青空へとまっすぐに吸い込まれていく。
絢と継は、母親である燈に優しく促されながら、小さな手を合わせてぎこちなく頭を下げた。
その無邪気で健気な姿に、静は目を細め、頬を緩ませる。
家族が代わる代わる手を合わせたあと、最後に頼が一人、墓石の前に進み出た。
静かに線香を供え、深く一礼する。
冷たい石の表面に刻まれた父の名を見つめながら、頼の脳裏には、霞ヶ関の重苦しい空気や、これから待ち受ける激しい政争が去来した。
(お父さん、、、。俺が今立っている場所は、あなたが生き抜いた時代よりもさらに危うい、狂気に満ちた戦場だ。軍部は暴走し、この国は破滅への坂道を転げ落ちようとしている。だが、俺は引かない。この手で強固な防壁を築き、あの狂気の奔流をここで食い止めてみせる)
誰に告げるでもなく、心の中で静かに誓いを立てる。
それは孤独な決意であったが、不思議と胸のうちは波立つことなく、どこまでも澄み切っていた。
自分の背中には、この父親から受け継いだ血脈があり、すぐ後ろには愛しい妻と子どもたちが生きる現在がある。
墓参りを終え、日が高くなってきた境内をゆっくりと引き返す道すがら、静がふと足を止め、頼のほうを振り返った。
その瞳には、息子が背負っている重荷のすべては見えずとも、その激しい生き様がしっかりと映し出されているようだった。
「頼。お前が東京でどんなに忙しく、大変な役目を背負っているのか、母さんには細かくは分からない。だけどね、、、どうか体にだけは気をつけるのよ。お父さんも、きっと空からあなたと、この可愛い孫たちのことを誇らしく見守ってくれているからね」
気負いのない、母からのまっすぐな慈愛の言葉だった。
前日に保から受けた理性の肯定とはまた違う、母の温もりが、頼の心の奥底をじんわりと満たしていく。
「ありがとう、お母さん。心配をかけるかもしれないが、俺は大丈夫だ」
頼が穏やかに微笑み返すと、静は満足そうにうなずいた。
頭上では蝉たちが盛夏を謳歌するように声を張り上げ、木々の間を吹き抜ける風が、家族の髪を心地よく揺らしていく。
東京という名の戦場へ戻るまでの限られた時間。
頼は、この故郷の青空の下で確かな英気を養い、再び前を向いて歩き出した。




